大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。
宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどり、父鎮理は二十二歳の時に筑紫の名族高橋氏を嗣ぎ、高橋主膳兵衛鎮種と名乗り、後の入道号である紹運の名で広く知られている。
当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。
ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾、ここに宗茂は立花道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けて育ったた。
わが郷土史英雄の誕生経緯である。九州大学・九州産業大学の学長だった神田慶也氏も高田市の生まれだった。
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