天正9年8月29日:今日は徳川家康が正室築山殿を、武田氏内通の嫌疑により遠江富塚で野中重政に命じて殺害した日。
築山殿はその実家関口家(のち瀬名と改性)の記録などにも、嫉妬深く狂気じみていると記されており、新婚時代には瀬名の御前、瀬名の御新造とよばれ、岡崎にきて駿河の御前となり、家康との関係が悪化し、築山御殿に隔離されてから、築山殿と蔑称されたらしい。
内通の嫌疑とは、「武田勝頼に対し、徳川領をそっくり信康に与えること、自分を武田家中のしかるべき人物の妻とすることを条件に、信康を教育して武田方に付かせると申し入れた」ので、勝頼が承諾して起請文を送ってきた。
築山殿はその実家関口家(のち瀬名と改性)の記録などにも、嫉妬深く狂気じみていると記されており、新婚時代には瀬名の御前、瀬名の御新造とよばれ、岡崎にきて駿河の御前となり、家康との関係が悪化し、築山御殿に隔離されてから、築山殿と蔑称されたらしい。
築山殿 |
事態を重大視した信長は酒井忠次を呼び糺しました。手紙には信康の暴虐的振る舞いと築山殿の悪行が認められており、信長は一つ一つ忠次に確認しますが、忠次も築山殿に反感を抱いており、すべてを肯定してしまいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿