2017年8月14日月曜日

日本海軍の電波技術と伊藤庸二大佐







太平洋戦争の記録をよむと、日本海軍は電信の暗号を解読され、電探(レーダー)で居場所を計測されて、実戦で次々に敗北し、総司令官山本五十六も戦死している。


この海軍の中で当時誰も目を向けなかった電探の開発に心血を注いだ技術将校がいた。

その人は伊藤庸二大佐で、中川靖造著『海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち』に比較的詳く紹介されている。

経歴の概要。
伊藤庸二(1901~1955)
明治34年(1901)に千葉県御宿に教育家伊藤鬼一郎の長男として生まれる。
大正13年(1924)東京帝国大学工学部を卒業後海軍造兵中尉に任官した。
昭和2年(1927)に海軍より独逸ドレスデン工科大学に留学し、八木秀次博士の勧めでBK振動の発見者であるバルクハウゼン教授に師事し、特殊振動管の研究を行い、工学博士号を取得した。

戦中は海軍技術研究所の技術大佐としてマイクロ波レーダーの開発に携わると共に、マグネトロンの研究に没頭し、大戦末期には海軍技術研究所島田分室で大出力マグネトロン「Z装置(怪力光線)」の開発を指揮した。
(戦後は光電製作所を立ち上げ電波方向探知機の製造を行うと共に、財団法人資料調査会の役員として帝国海軍に関わる資料の保存・研究に尽力した。防衛技術研究所の開設が決まると、その初代所長への就任を要請されたが昭和30年(1955)5月9日に54才で急逝した。
なお、戦前日本無線で当時世界最高出力の水冷式マグネトロンを開発した中島茂は伊藤庸二の実弟である。)

伊藤は電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきと早くから提唱していた人物で、昭和十五年、遣独軍事視察団に随行した際、実戦配備されていた「ウルツブルグレーダー」を目の当たりにし、その兵器としての威力に衝撃を受けた伊藤は、ウルツブルグレーダーに関する詳細な報告書を作成、艦政本部に提出した。

当初は艦政本部は、そんなものは暗闇に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には向かないと、取り合わなかった。
伊藤は研究所内に伊藤教室をつくり、若手の電波技術教育の充実を行い、さらにバルクハウゼン博士の招聘を行い、ドイツ海軍が夜間でも電波で測距できる装置を開発したらしいという話を聞きだしたたりした。
このような情報活動と、陸軍が電探の研究に着手したこともあり、海軍上層部でも電探技術の重要性が徐々に認識されるようになり、昭和十六年八月、ようやく海軍省は「電波探信儀研究着手」の訓令を発し、九月には伊藤を主任として電探兵器の開発が開始された。
この頃ワシントン駐在の海軍武官が米海軍の装備をよく調べると、おかしなアンテナが各軍艦のマストについていることがわかった。真珠湾攻撃の4ケ月前のことである。

伊藤らは、戦時中は海軍技術研究所電子部にあって、電探の研究開発に全力投球した。
昭和17年4月に米軍機の東京初空襲があったが、房総と三浦半島に設置された電探は、まだ敵機を補足出来なかった。

この年軍艦伊勢と日向につけられた電探は、35Kmの戦艦は検知できたが、航空機は補足出来なかった。
この両艦はアリュ―シャン列島の作戦にでて、濃霧のなかを無事撤退することができた。

さらなる改良研究や量産に消極的だった艦政本部も、米軍がガダルカナル上陸作戦で使用した地形判別マイクロ波装置に驚き、漸く組織改正や予算増強にのりだした。昭和18年5月のことである。

陸上見張り用は、4号機までつくられ、それなりの実績を残した。
船艦装備の見張り電探は、潜水艦、海防艦、駆潜艦に使用された程度で終わった。
対空射撃用電探は英国式を模倣したが、実用化までに至らなかった。

伊藤らは、原爆や殺人光線の開発研究会「Z研究」を立ち上げたが、大風呂敷と批判された。
何とか島田技研の建設と人集めにこぎつけたが、終戦をむかえた。
しかしこれは戦後の復興に役立てられたという。


伊藤大佐は電探の開発で有名だが、米太平洋艦隊所属艦艇の発信電波を解析する算式、『"W"測定』(共同研究者である和智恒蔵大佐の頭文字を取って"W")の考案者の一人である。

この測定理論で、真珠湾作戦に先立って、在ハワイ太平洋艦隊の在伯状況を調査するのに利用され、伊藤大佐の電波伝播研究にも応用されていたという。
幕末から明治維新後に、日本が急速に電信技術を取り入れて、世界のトップレベルになっていたのに、昭和になって遅れをとったのは何故だろうか?

http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2015/08/825.html

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