花鶴川は最澄和尚が帰国した時、嵐のためこの川口に上陸した謂われがあり、河口の銅像がたっている。
この中でもっとも大きな川は大根川で、ダイコンガワと呼んでいる。
地形・地名の本によると、明治33年測図では、この川は清滝から流れくだり、薦野を過ぎると見えなくなり、熊鶴(現在の高速道路付近)で再び水路を形づくってながれていた。
米多比(ネタビ)あたりでは、河川としての明瞭な河床がなく、砂地と草原の混在した土手のない川原の状態だったようだ。
現在でも下流の久保地区では伏流水が湧き出て、水田に利用されている場所が2ヶ所ほどある。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/18835132.html
地名のネは、山根や尾根を現すことが多く、ここでは尾根からの流れを尾根(オネ)と呼び、文字が大根(オオネ)に転じて、いつしか「だいこん」と呼ばれるようになったらしい。
弘法大師が近くの畑にいた農民に「大根」を所望したが、わけてやらなかったので、大師が怒って川のながれを止めたという伝説があるが、古賀市民には厳しい話だ。川沿いに銅像が建てられている。
近くには小野(オノ)の地名もあり、 米多もオネに近い田で、比は樋すなわち小さな水流を示す地名である。
この流域には須賀神社が、米多比、筵内、新原の3ヶ処にある。スカは砂地であり大根川のように土手のない河では氾濫であちこちに砂地が出来やすい。氾濫を治めるための祈願をこめた神社だったと思われる。
またこの神社に近くには、渓雲寺、浄土寺がそろっているから、このあたりに集落があったこともはっきりしている。
新原には別に宇多宮があり、ウタ、ムタは地形学では泥沼のことだから、やはり同じような地形だったことがわかる。少し下流の庄には綿津見神社があり、これは海神だから、この近くまで海岸がせまっていた証拠となる。
弘法大師が川の流れをとめたという伝説も、自然の変化で水流が変わったことから出来た伝説話であろう。
新原には別に宇多宮があり、ウタ、ムタは地形学では泥沼のことだから、やはり同じような地形だったことがわかる。少し下流の庄には綿津見神社があり、これは海神だから、この近くまで海岸がせまっていた証拠となる。
弘法大師が川の流れをとめたという伝説も、自然の変化で水流が変わったことから出来た伝説話であろう。
この地質から、地下水の一部が海岸近くで、千鳥池や、中川のような小規模な川となって現れる。
昭和28年6月には、大根川が氾濫して、流域に大水害が発生した。この復旧工事費用の負担問題から、古賀、筵内、小野の合併が促進されたという。
花鶴川は、大根川、谷山川、青柳川の3川が合流した川である。
谷山川は、谷山地区の農地を経由し、青柳川は久山町から小竹、青柳の農地を経由して、合流点以後は谷山川となる。
合流地点付近が錯綜しているので、地図では川の名前が間違っているものがある。
合流地点付近が錯綜しているので、地図では川の名前が間違っているものがある。
花鶴川の河口に近い大根川には、大きな三角州がある。
古賀市役所の裏手にあるこの三角州は、正式名称は上屋敷という小字名である。
大正時代の地図にはないので、昭和になって水流改善のためバイパスがつくられ、三角州になったらしい。
古賀ふるさと見分けの会の環境活動で、この地区の整備計画がはじまっている。
大根川と谷山川の合流点にできた三角州なので、周辺には落合という小字名があり、三角州に渡る橋は落合橋であるが、上屋敷との境界などははっきり調べないとわからない。
私のすむマンションは、落合北2組である。
今まで市の埋蔵文化担当者が、古墳調査や花鶴浦の遺跡調査を行ったが、この周辺から埋蔵物は何も見つからなかったそうだ。
上屋敷という名前から、一時的に屋敷が存在していたのかも知れないが、洪水で水没しやすい場所だから、その後なくなったのであろう。10年前くらいの地図に小規模の建物があった記録があるが、現在は存在しない。
先日、市役所の3Fから眺めてみたら、三角地帯の周辺は堤で囲まれており、中はきれいな水田で青々と稲の穂がみのっていた。
古賀市は昨年7月この地区の河川整備要望書を県に提出し、県は「郷土の水辺事業」のなかで、何が出来るかをコンサルタント会社に調査をさせているいるところだという。
定例的な堤防の草刈や、河川清掃の助成金とは別で、また東屋やベンチなどの設置は対象外という。さてなにが出来るのだろう。
過去には、福岡県が平成7年に糟屋・宗像地区河川環境管理協議会を組織して河川環境の現状調査を行った記録があるが、その時には上屋敷地区については何もとりあげられていなかった。
古賀ふるさと見分けの会も、環境活動に助成金を出しそうな団体をしらべて、今後の活動を模索中という。(H22)
平成29年7月には、その工事の一部が、上の写真のように実施されたようだ。
一部の突き出た三角洲の場所は、象の鼻とよばれている。
今まで市の埋蔵文化担当者が、古墳調査や花鶴浦の遺跡調査を行ったが、この周辺から埋蔵物は何も見つからなかったそうだ。
上屋敷という名前から、一時的に屋敷が存在していたのかも知れないが、洪水で水没しやすい場所だから、その後なくなったのであろう。10年前くらいの地図に小規模の建物があった記録があるが、現在は存在しない。
先日、市役所の3Fから眺めてみたら、三角地帯の周辺は堤で囲まれており、中はきれいな水田で青々と稲の穂がみのっていた。
古賀市は昨年7月この地区の河川整備要望書を県に提出し、県は「郷土の水辺事業」のなかで、何が出来るかをコンサルタント会社に調査をさせているいるところだという。
定例的な堤防の草刈や、河川清掃の助成金とは別で、また東屋やベンチなどの設置は対象外という。さてなにが出来るのだろう。
過去には、福岡県が平成7年に糟屋・宗像地区河川環境管理協議会を組織して河川環境の現状調査を行った記録があるが、その時には上屋敷地区については何もとりあげられていなかった。
古賀ふるさと見分けの会も、環境活動に助成金を出しそうな団体をしらべて、今後の活動を模索中という。(H22)
平成29年7月には、その工事の一部が、上の写真のように実施されたようだ。
古賀市役所近くの庄橋には水位局が置かれ、その情報を県河川防災情報で常時公開している。
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