2017年8月17日木曜日

終戦記念日前後の記憶

戦後72年の新聞記事で思い出したのは、「対戦車戦闘訓練」のこと。
昭和20年頃の大学生の教練は月1回くらいで、中学や高校のように武器庫もない。11月からの米軍九州上陸作戦に備えて、座布団爆弾を戦車のキャタビラの下に投げこむ自爆訓練。
2mくらいの竹竿のさきに小形座布団をつけて、塹壕のなかからとびだす練習であった。

名簿順ですか?いろは順になりませんか?と秋吉くんがいうと、どちらでも俺は早い順番だと今任くんが最初にとびだしたのを憶えている。みな死を覚悟しての半分遊び感覚の教練であった。

艦載機が上空を飛び交うようになり、町を歩くのも物騒になってきた。出来たばかりの3号線は道幅がひろく、車も殆ど通らない時代だ。のんびり歩いていたら前方にグラマンの機影が見えたと思ったら、いきなり機銃掃射をしてきた。

道路に1m間隔くらいに土煙があがる。あわてて左によけて、難をのがれた。


西戸崎上空で空中戦がはじまり、1機が螺旋状に落ちはじめた。
やったと思ったら、その落下する翼に日の丸が見えた。ゼロ戦のパイロットも、もう初心者ばかりの時代になっていた。

7月26日のポツダム宣言内容が27日の新聞に載った。本土4島が日本として残るという内容は、魅力的だと友人と語ったが、翌日鈴木内閣がこれを拒否したので、がっかりしたと、当時の日記に書いていた。原爆をうける前では、鈴木貫太郎もまだ降伏をいいだせなかったのであろう。

原爆のことは、別のブログにかいたので、ここでは触れない。
https://gfujino1.exblog.jp/9290692/

8月14日になり米軍機がビラをまいた。

日本はポツダム条約を受け入れたという内容で、学生らが助教授に確認しにいったが、勿論推測の話しかきけなかった。

8月15日の終戦玉音放送のあと、西部軍将校が数名大学にきた。みな大学卒OBの将校で、以前にも数回きたことのある顔である。
軍需用備蓄食料を米軍にとられる前に、福岡市民に配給するので、明日の夜手伝ってくれという。17日の夜、板付飛行場近くの倉庫からトラック1台に荷物をつんで、主に博多区の町内会を一晩中、配給してまわったのを覚えている。

ご苦労賃にミルク缶をひとつもらった。

その翌日、工学部講堂で学部長の講話があった。
「原爆によってアメリカに敗れたが、これからの研究で小型原爆をつくり、ひそかに米本土に持ち込んで、ワシントンで仕返しをする覚悟が必要だ。」
退役技術将校の教授の最後のひとことだったが、すぐ退職された。

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