現在は「いずも」と平仮名で書いた海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦 があるが、出雲(いずも)は旧日本海軍の装甲巡洋艦で、六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された。日露戦争や第一次世界大戦、支那事変に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。
古賀市との絆は、いま歴史資料館で展示されている「海からのメッセージ」で、もと石井館長が、海の中道の砂浜で見付けられた小さな杯である。
この杯の外側には、「大正10、11年世界周遊記念、戦艦出雲」と記載され、内側には世界地図が描かれている。
今年展示されたものは、10年以前のものより大分黒ずんだ色に変色していた。
そこで、「出雲」の戦歴や関連のエピソードをまとめてみた。
古賀市との絆は、いま歴史資料館で展示されている「海からのメッセージ」で、もと石井館長が、海の中道の砂浜で見付けられた小さな杯である。
この杯の外側には、「大正10、11年世界周遊記念、戦艦出雲」と記載され、内側には世界地図が描かれている。
今年展示されたものは、10年以前のものより大分黒ずんだ色に変色していた。
そこで、「出雲」の戦歴や関連のエピソードをまとめてみた。
第一次世界大戦が勃発すると、遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。また、第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣され、中央同盟国の潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。
戦後、御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。
その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。その後の調査で、この周航に乗り組み員として参加されたかたが、古賀市にもおられたという。
杯のなかには前述のように世界地図が画かれおり、太平洋、アメリカ、パナマ、大西洋、イギリス、地中海、スエズ、インド洋、東南アジア経由の周航記念を示しており、隊員に配布された記念杯の一つが、海の中道に漂着していたことになる。
支那事変に際しては第三艦隊の旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は、上海で米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」を撃沈している。
当時のことを、西日本新聞に芥川賞作家林京子さんがエッセイで掲載された。
太平洋戦争開戦当時、上海の女学校に通っていた京子さんが、英会話で人気のあった英国人の先生と、この日を限りに別れた記憶の話である。昭和16年12月8日上海の守備についていた軍艦「出雲」を旗艦とする日本海軍は、降伏勧告をうけいれなかった英艦ペテレルを撃沈し、日英が敵対国になったためである。
エッセイでは上海で英艦を砲撃したのは「出雲」と思っていたが、その後の調査で、国産の駆逐艦「蓮」ということがわかったと林さんは書いている。英国製の「出雲」が英艦を撃沈したのでなかったのはせめてものすくいであると、林さんは思ったらしい。
(林さんは長崎市出身で、誕生の翌年、父(三井物産社員)の勤務地・上海に移住して育ち、昭和20年に帰国し、長崎高等女学校に編入学。同年8月9日、市内大橋にある三菱兵器工場に学徒動員中、被爆した。爆心地に近かったが奇跡的に助かった。)
戦争末期には、出雲に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。
1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。小用港沖で戦没した戦艦「榛名」、姉妹艦「磐手」も同じく呉軍港で撃破されている。
広島県、江田島市には、「出雲、榛名」合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。
NHKテレビので、この呉空襲をおこなったB-24爆撃機の1機で、撃墜された操縦士のなかの生存者が紹介されたのには驚いた。
機長だった彼は、その直後の広島の惨状を見せつけられ、東京まで移送されて尋問をうけるが、終戦となり解放されている。帰国後は農学部の教授になって活躍していた。
戦後、御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。
その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。その後の調査で、この周航に乗り組み員として参加されたかたが、古賀市にもおられたという。
杯のなかには前述のように世界地図が画かれおり、太平洋、アメリカ、パナマ、大西洋、イギリス、地中海、スエズ、インド洋、東南アジア経由の周航記念を示しており、隊員に配布された記念杯の一つが、海の中道に漂着していたことになる。
支那事変に際しては第三艦隊の旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は、上海で米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」を撃沈している。
当時のことを、西日本新聞に芥川賞作家林京子さんがエッセイで掲載された。
太平洋戦争開戦当時、上海の女学校に通っていた京子さんが、英会話で人気のあった英国人の先生と、この日を限りに別れた記憶の話である。昭和16年12月8日上海の守備についていた軍艦「出雲」を旗艦とする日本海軍は、降伏勧告をうけいれなかった英艦ペテレルを撃沈し、日英が敵対国になったためである。
エッセイでは上海で英艦を砲撃したのは「出雲」と思っていたが、その後の調査で、国産の駆逐艦「蓮」ということがわかったと林さんは書いている。英国製の「出雲」が英艦を撃沈したのでなかったのはせめてものすくいであると、林さんは思ったらしい。
(林さんは長崎市出身で、誕生の翌年、父(三井物産社員)の勤務地・上海に移住して育ち、昭和20年に帰国し、長崎高等女学校に編入学。同年8月9日、市内大橋にある三菱兵器工場に学徒動員中、被爆した。爆心地に近かったが奇跡的に助かった。)
戦争末期には、出雲に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。
1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。小用港沖で戦没した戦艦「榛名」、姉妹艦「磐手」も同じく呉軍港で撃破されている。
広島県、江田島市には、「出雲、榛名」合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。
NHKテレビので、この呉空襲をおこなったB-24爆撃機の1機で、撃墜された操縦士のなかの生存者が紹介されたのには驚いた。
機長だった彼は、その直後の広島の惨状を見せつけられ、東京まで移送されて尋問をうけるが、終戦となり解放されている。帰国後は農学部の教授になって活躍していた。
軍艦「出雲」の杯に関連するエピソード。
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