幕臣で知識人の小栗忠順はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。
遣米使節団より帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。
だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。
小栗は、遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福沢諭吉を編集・発行の責任者に充てるつもりであったという。
だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。
小栗忠順 |
その後、幕府内では、元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発(ながおき)、河津祐邦(すけくに)、河田煕(ひろむ)が「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。
この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として、世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。
これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。
しかしこの書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判したとして処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。
ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。
しかし戊辰戦争の最中、新政府軍と旧幕府軍が江戸で対峙した慶応4年(1868)2月から、上野の山の戦争で彰義隊が敗北を喫する5月にかけて、江戸や新開地の横浜に「佐幕派の新聞」(幕府支援・薩長批判の新聞)が続々と発刊された。
いずれも木版刷り、2つ折の半紙を10枚ほど綴じ合わせた和本様の小冊子で、内戦関連の報道・評論を中心に、3日か4日に1回発行されている。「新聞」という新たなメディアが幕末の戦乱の中で誕生したことは注目に値する。
創刊順に列挙すると、「中外新聞」を手始めに「内外新報」「中外新聞外編」「公私雑報」「江湖新聞」「遠近新聞」「横浜新報もしほ草」「日日新聞」「この花新書」「東西新聞」「陸海新聞」などである。
「佐幕派の新聞」は、劣勢に立った旧幕府軍(徳川軍)のため言論で新政府軍に抵抗した。江戸市内の徳川びいきの江戸っ子の歓心を買うためでもあった。同時に薩長連合の専横に一矢を報いんとしたのである。
「佐幕派の新聞」は、劣勢に立った旧幕府軍(徳川軍)のため言論で新政府軍に抵抗した。江戸市内の徳川びいきの江戸っ子の歓心を買うためでもあった。同時に薩長連合の専横に一矢を報いんとしたのである。
明治初期の言論人を考えるとき、主流をなしているのが旧幕臣たちであったことは象徴的な史実である。
洋学者で日本人による最初の雑誌や新聞である「西洋雑誌」「中外新聞」を発行した柳河春三、「朝野新聞」を発行して政府批判や時事風刺などに名筆を揮(ふる)った幕臣・成島柳北、「郵便報知新聞」に拠って反政府の論陣を張った幕臣・勘定奉行栗本鋤雲(じょうん)、「東京日日新聞」社長、主筆として明治期の有力な言論人だった幕臣・福地桜痴(おうち)「横浜毎日新聞」主筆の幕臣・島田三郎などである。
福地桜痴の言葉:(「新聞紙実歴」)。
成島柳北
|
「戊辰の変に際し、余は非恭順論者の一人にて維新の王師に反対するの念をいだきたりしかども、地位は卑し腕力は無し、むなしく悲憤慷慨して口角に沫(ルビあわ)を吹き無益の舌をふるうにとどまりて亳(ごう)も実際に影響するところあらざりき。
しかるにこの年(明治元年)の三月ごろより新聞紙の刊行突然として起こりたり。・・・・これを見て余は大いに喜び、これぞ余が自説を世上に試みるの機関なりと考えたり。」
明治藩閥政府に対して批判的な彼ら旧幕臣言論人たちが拠り所としたのは、彼らが代々生きて来た武家社会の倫理・見識であり江戸っ子文化であった。
福地桜痴 |
知識人成島柳北の場合は、政府の言論弾圧にたいして彼が馴(な)れ親しんできた江戸文化(風刺や諧謔)によって対抗した。投獄も恐れない旧幕臣たちが新聞報道の主力であった時代は、彼らが引退したり他界するにつれて幕を閉じていった。
しかし権力にたいして反骨精神を貫くべきであるとの近代ジャーナリズムの原型はこの時同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三(しゅんさん)は頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。
同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。
しかし権力にたいして反骨精神を貫くべきであるとの近代ジャーナリズムの原型はこの時同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三(しゅんさん)は頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。
柳河春三 |
同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。
「中外」は、外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。
戦前の五大新聞の一つ。創刊に当たって「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。
0 件のコメント:
コメントを投稿