その説明で、九大名誉教授F氏が、現在の箱崎中学の場所あたりであったという。鹿児島本線と宇美川の間に挟まれた場所で、市民が近づけない松原地区だったから、われわれも当時は噂でしか知らなかった。
多々良川と宇美川の合流点 |
〇印が箱崎中の場所 |
名島地区の郷土史を読み直すと、当時米軍が空撮した写真があり、8月の終戦の数日後に、この米軍捕虜収容所に、救援物資が落下傘つきで投下された。赤、赤白、白、黄色の落下傘が多数空に舞い、一部は住民も拾ったという。将校クラスの収容所だったからであろう。
落下傘で投下される援助物資 (川の向こうに名島発電所) |
10月初めには米軍海兵師団28連隊約千名が、名香野国鉄操作場へ進駐してきた。
この米軍基地は昭和27年の講話条約締結まで続き、私も約2ケ月間基地内の売店PX(post exchange)で作業員をしながら、米語の習得をした。
キャンプ地の航空写真 |
千早駅の東側が操車場(昔は海岸沿い) |
操作場を横断する細い陸橋が当時の地図にのっている。 |
昭和22年の名島駅付近の写真である。 駅から発電所へ引込線がある。 |
当時名島駅で降りて、米軍キャンプまで徒歩で、往復していた。
この場所には、戦時中に陸軍の松崎倉庫があった。
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