2020年8月16日日曜日

母里太兵衛(友信)

子供が嘉麻市の病院に勤務しているので、近くの益富城跡や麟翁寺に案内してくれた。
母里太兵衛は、鷹取城主であったが、後藤又兵衛のあとの城主となり、麟翁寺にその墓がある。
武勇や、酒豪で有名だが、現代までその歴史の一端を残してくれている。

益富城跡
麟翁寺の母里太兵衛の墓



一番有名な話は日本一の槍で、明治末期か大正時代に、子孫がその槍を手放し、何人かの手を経て、これを保存せねばと買い取ったのが、安川敬一郎であった。




母里太兵衛の銅像

敬一郎の家の座敷の欄間に、この槍は飾ってあった。

息子の安川寛は、子供のころ槍の下を通るのが怖かったと話していた。

敬一郎は晩年になり、この槍は黒田家に返すべきだと考え、それを実行した。

黒田家からは返礼として、狩野派の双巾の掛軸が安川家に寄贈された。
その後黒田家は槍を福岡県博物館に寄贈されたので、安川寛も晩年に、狩野派の掛け軸を国立美術館に寄贈した。

寄贈前にその掛軸を幹部社員に披露され、経緯を話されたのでよく覚えている。

最近聞いた話では、太兵衛の妻は大友宗麟の娘で、キリスト教徒であった。
黒田官兵衛も晩年はキリスト教の理解者になっていたので、二人は相通じるものがあった。
別府の石垣原の決戦で大友軍を破ったあとの和平交渉には、母里太兵衛が主役にたって活躍したという。太兵衛の妻が大友義統の妹だったからである。

いままでのイメージでは、考えられないような面もあったようだ。

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