2020年8月10日月曜日

九州飛行機香椎工場


太平洋戦争では、戦争が飛行機の時代に変わり 制空権を制することが最大のこととなった。 
飛行機工場はいくら増産をしても足らない状態が続き、 九州飛行機も雑餉隈の本社だけでは足らなくなり 昭和17年香椎に飛行機製造工場がでた。ここでは主に 陸上哨戒機「東海」Q3W や、潜水艦攻撃機(Q1W1) 東海の製造をしていた。


この写真からも分かるように香椎川から名島付近まで3号線の海側すべてが工場用地であった。

工場の配置明細は下記の写真を参照。当時の道路基礎や、ロータリーの跡などが、いまの住宅地の中に残っている。






昭和30年に名香駅付近から香椎工場跡の白い建物が見える風景

飛行機の製造には多くの工員が必要だが ほとんど兵士として徴兵され、 代わりに 中学生、女学生がラインを担当し製造をした。
わたしも中学生でリベット打ち作業を担当した。

部品増産のため、和白の海岸部にも、分工場が造られた。

空襲では、幸いにも近くの空き地(今のダイエー香椎店の裏)に爆弾が二発落ちただけで 戦争の間 工場は爆撃に会うことがなかった。

しかし 戦局が逼迫してくると何時 爆撃にあっても不思議なことはなく、香椎工場でも工作機械の疎開が始まり、香椎宮に続く勅使道の右側の丘に横穴を掘ってそこで飛行機の部品が作れるように移動を始めたところで 戦争が終わった。 今でも横穴の跡が一部に残っている。

 陸上哨戒機「東海」は 主翼と胴体を製作ラインで作り、組み立てラインで胴体と主翼を合せ、脚を付けてからエンジンと武装を儀装ラインで施し完成さる。

これを雁ノ巣飛行場に浮舟で運び そこで試験飛行をしてから各地に空輸する。浮舟までは、中学生が手押しではこんだ。

「スベリ」と呼ばれるコンクリートの斜路は水上偵察機(零式3座水偵)を海に下ろす為のものである。その跡は香椎側、雁ノ巣側にも残っている。



雑餉隈の九州飛行機本社で約1000機製造した零式3座水偵はここに運ばれて 検査、試運転をしてから各地に飛び立った。


戦後は香椎自動車工場と社名を変え、バスの車体を作り 始め、
その後、佐賀の基山に引越しして 渡辺自動車工業になり、平成13年解散し歴史を閉じた。

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