2020年8月13日木曜日

市川崑と東京オリンピック

昨日のテレビで久しぶりに市川崑の顔をみた。東京オリンピックの映画や犬神家の一族の映画製作の裏話であった。


 東京オリンピックの映画の経緯は、安川第五郎氏からよく聞いていた。

記録映画の監督には当初黒沢明が予定されていたが、政府予算が少ないので辞退され、市川崑が担当することになった。
市川も政府予算の2億5千万では、カラーや照明など不足するから、あと1億か1億5千万追加してほしいと要求した。
安川は政府予算に、財界寄付をつのり、3億5千万の予算をつけた。

 大会が終わり、試写会をみた河野一郎などが悪評をあびせた。そのためか、公開権利を交渉した映画会社、松竹、日活、大映、東映、東宝などすべて、2億5千万円では赤字になるとことわった。終わったオリンピックの記録など、大衆が見るはずがないと、映画会社幹部は思っていたようだ。
東宝だけが、1億5千万でひきうけ、利益が出た分の60%を組織委員会にリターンするという条件を付けて安川は東宝に公開権利を渡した。

公開の結果は大好評で、リターン額は7億5千万に達した。
(テレビでは、お金の話は皆無であった)
市川崑の映画が単なる記録ニュースでなく、運動の美学とまでいわれた画像だったからである。


アスリートの心情の表現を重視した演出や、超望遠レンズをはじめとする複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使し、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。しかしそれは、1936年のベルリンオリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』と並んで、「芸術か記録か」という大論争を引き起こすことになった。

わたしが市川崑をしったのは、ビルマの竪琴のころである。
昭和30年代に、ちょうど東京に出張し先輩と銀座付近の居酒屋で飲んでいたとき、近くの席で盛んに映画の話をしている数名の客がいた。
次にとる映画のテーマの内容を幾つかあげて説明しているのが市川崑だった。偶然の出会いであったが、その後の彼の映画に関心を持つようになった。
若い頃の市川

犬神家の一族の成功の話も、雑誌などで多少知っていたが、テレビで詳しく理解できた。

0 件のコメント:

コメントを投稿