沖ノ島の「関連遺産」として構成されていた新原・奴山古墳群や大島の沖津宮遙拝所と中津宮、辺津宮は除外されそうだったが、九州本島の古代豪族の活躍がなければ、沖ノ島の存在もなかったはず。半端な遺産にならないようしっかり説明されて、なんとか総合的に遺産としてみとめられた。
出雲は古代史ではさらに多くの神話にあふれているが、まだ登録されていない。
宗像と出雲の関係はあまり知られていないが、2004年3月に久しぶりに出雲大社に参拝したとき、出雲と宗像の関係が深いことをきいた。その後調べたことを含めた纏めてみた。
宗像と出雲の関係はあまり知られていないが、2004年3月に久しぶりに出雲大社に参拝したとき、出雲と宗像の関係が深いことをきいた。その後調べたことを含めた纏めてみた。
出雲大社の祭神大国主命(大国主神)は出雲の国譲り神話で知られる神だが、ここには大国主命のほかに5人の客神がいると云う。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神らの神だ。
出雲大社は南面していて5人の客神も南面しているのに、肝心の大国主神は西に向いている。
西を向いているのは、この世を奴国に譲って、あの世(黄泉の国)を支配する王になったという説がある。
日本海を九州から対馬海峡を通って北陸に流れる対馬海流を媒介とした海人たちの活躍や、記紀神話にみられる両地域の密着性がある。
古事記によると、アマテラスがスサノオの剣をとり、そこから宗像三女神を生み出す。
宗像三女神はスサノオの子神ということで、その三女神を宗像氏が祭祀する神となる。
また沖津宮のタキリビメ命は、オオクニヌシ神と婚姻をむすんでいる。
このように神話的にみても、出雲と宗像は密接な繋がりをもっている。
律令時代には、出雲と宗像のふたつの郡は、神郡として特別のあつかいをうけていた。
どちらも評造(のちの郡司)に三等親以上の親族が連任することが特に許されていた。どちらにも出雲大社、宗像大社があり、神郡である特例であった。
こうした特例は、伊勢、常陸、紀伊などにもあったようだが、出雲・宗像は他の地域に先駆けて認められていた。
両氏は当時、大社の宮司と評造(郡司の長官)を兼任していた。のちに兼任は禁止されることになる。
延暦17年に興味深い事件が記録されている。
太政缶符によると、出雲の國造が、神官の采女ということにかこつけて、多数の女子をめとっていたので、その禁止令を出雲にだし、「筑前國の宗像神主もこれに倣えよ」でしめくくっている。
崇神天皇が、出雲大社の神宝を見たいと伝え、大和朝廷から神宝を貢上するように使者が出雲に来たとき、出雲側の最高責任者である出雲引振根が宗像にでかけて留守であったという。
大和からの外圧を、宗像と出雲が連合して対応したようだ。
その他共通する点が多く、出雲と宗像は強い連合関係にあったようだ。
考古学では、出雲は銅鐸圏、北部九州は銅戈、銅矛圏と区別されていたが、出雲の國引き神話の考古学的研究で、出雲は新羅、沿海州、越などと幅広く黒曜石などの交易をしていたことがわかり、宗像も含まれていたかもしれない。今後の調査が期待される。
古事記によると、アマテラスがスサノオの剣をとり、そこから宗像三女神を生み出す。
宗像三女神はスサノオの子神ということで、その三女神を宗像氏が祭祀する神となる。
また沖津宮のタキリビメ命は、オオクニヌシ神と婚姻をむすんでいる。
このように神話的にみても、出雲と宗像は密接な繋がりをもっている。
律令時代には、出雲と宗像のふたつの郡は、神郡として特別のあつかいをうけていた。
どちらも評造(のちの郡司)に三等親以上の親族が連任することが特に許されていた。どちらにも出雲大社、宗像大社があり、神郡である特例であった。
こうした特例は、伊勢、常陸、紀伊などにもあったようだが、出雲・宗像は他の地域に先駆けて認められていた。
両氏は当時、大社の宮司と評造(郡司の長官)を兼任していた。のちに兼任は禁止されることになる。
延暦17年に興味深い事件が記録されている。
太政缶符によると、出雲の國造が、神官の采女ということにかこつけて、多数の女子をめとっていたので、その禁止令を出雲にだし、「筑前國の宗像神主もこれに倣えよ」でしめくくっている。
崇神天皇が、出雲大社の神宝を見たいと伝え、大和朝廷から神宝を貢上するように使者が出雲に来たとき、出雲側の最高責任者である出雲引振根が宗像にでかけて留守であったという。
大和からの外圧を、宗像と出雲が連合して対応したようだ。
その他共通する点が多く、出雲と宗像は強い連合関係にあったようだ。
考古学では、出雲は銅鐸圏、北部九州は銅戈、銅矛圏と区別されていたが、出雲の國引き神話の考古学的研究で、出雲は新羅、沿海州、越などと幅広く黒曜石などの交易をしていたことがわかり、宗像も含まれていたかもしれない。今後の調査が期待される。
0 件のコメント:
コメントを投稿