2020年12月10日木曜日

宝満山(竈門山)と古賀の修験道 峰入り行事

 天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。

天武天皇二年(673)、開山心蓮上人が宝満山中で修行中、にわかに山谷震動して貴婦人が現れ、「われはこれ玉依姫の霊、現国を守り、民を鎮護せんために、この山中に居すること年久し。」などと告げ、金剛神に姿を変じ九頭の龍馬に駕して天を自在に飛行しました。心蓮上人は直ちに朝廷にその旨を奏上すると、朝廷の命によって、竈門神社の上宮が建立されました。



宝満山が大宰府政庁の鬼門封じとして様々な国家的祭祀が営まれてきたことにより、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使として大陸へ渡る人々は渡航前にこの山に登拝し、航海の安全と自身が担う国家的事業(入唐求法)の成功を祈願しました。それ以後、高僧の往来も盛んになり、平安時代末から鎌倉時代には周辺に三七〇もの坊舎が存在したと伝えられています。

中世以降、宝満山での信仰は蒙古襲来を契機として修験道と結びつき、神仏習合の色合いを強めていきます。修験道とは、日本古来の自然崇拝信仰に、神道、仏教ことに密教、道教、陰陽道などが集合した宗教であり、修験者(山伏)は山中での厳しい修行により功徳を得て、世の人々を救いました。

中世末に戦乱の被害を受けますが、豊臣秀吉や小早川隆景、また歴代の黒田藩主の寄進を受けて、建物や霊場の整備が進められ、再び祈りの山として信仰を集めました。
明治時代に入り、新政府の方針で神仏分離令が発せられ、修験道は廃止され仏教的な要素を含む建物や仏像は破壊され、宝満山伏たちも山を追われることになりました。

しかし、昭和57年(1982)、この山の開祖心蓮上人の千三百年忌を期に宝満山伏の末裔が中心となり「宝満山修験会」が再び結成され、以来、新緑が眩しい毎年5月には、峰入りや採燈大護摩供などの行事が厳修されています。

(令和の時代になり、鬼滅の刃のブームで、竈門神社に多くの人がお参りするようなっています。)



峰入り行事は、近郊の山々を密教の胎蔵界、金剛界などに見立てて巡錫することで、宝満山から犬鳴山連山を経て、古賀市にも巡回してきていました。
古賀市を通過するのは、春の峰入りで、春峰外金剛部法華二十八品の峰のうちでした。
これは宗像の織幡宮(妙法蓮華経品第一)にはじまり、宝満山中の白蛇窟(同普賢菩薩勧発品第二十八)で終わる行程のうち、宗像の許斐山を経由して、筵内(同化城諭品第七)、岳越山(同五百弟子授記品第八)を通り、あとは名島の笈掛弁天にいきました。

筵内には、もと宝満山宮があり、文政3年3月の記録に、「此の宮竈山派山伏峰入りのせつご祈祷有り来るものなり」と記録されており、また文化9年の峰入りの記録では、「4月8日、宗像郡許斐山を務め、粕屋郡む筵内村氏神に一宿」となっています。

岳越山については、文化9年の峰入りの記録で、「4月9日、岳越山、名島笈掛弁天を通り、香椎宮に一宿」となっています。

いずれも当時の祈祷神社やその場所の遺跡が残っていないのは残念です。
地元系の山伏として、阿部、鍋嶋、村上、田原、高澄の5家の記録があり、小山田にも一人いた記録があります。
そのうち米多比の村山家には、比較的多くの古文書が保存されていたので、古賀郷土史研究会の有志で、調査記録された資料があります。


地元での修験道行事は衰退しているので、峰入りなどの行事は途絶えています。

しかし宝満山のほうでは、前述のように修験会がや研究会ができて、奥之院への峰入り行事が、行われています。

平成29年4月23日(日曜日)快晴の中、宝満山弘友会による第4回の宝満山十六詣りがおこなわれました。
参加は筑紫野市内の中学生26名、筑陽高校郷土研究部生徒10名、付き添い19名、報道関係者1名を、宝満山修験会の山伏3名が引率する形でおこなわれました。
復興行事として始まって以来の好天で、脱落者もなく無事満願を達成し、竈門神社に奉告することができたそうです。

            令和3年の宝満山の山伏行事

森先生の記事:4月5日
宝満山に山伏が帰ってきました❗️
コロナ禍、昨年はすべての行事を中止していましたが、今日は久々の峰入り。
「世界ふしぎ発見の撮影です。」放送は5月15日の予定だそうです。
新緑と咲き始めた石楠花が眩しい山道に法螺の音が響き渡りました。気持ちがスキッとしました。
今年は、感染防止に細心の注意を払って、16詣り、入峰、護摩供も実施予定です。




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