2020年12月18日金曜日

桶狭間の戦と大高城

 昨日の大河で、桶狭間の決戦があり、今川、織田、徳川の微妙な関係が示された。

もともと今川氏も発祥の地は三河で、現在の西尾市今川町である。
歴史的には、徳川(松平)より今川が古く、足利幕府の初期に九州探題を務めた今川貞世(了俊)が有名である。そのころから駿河・遠江の守護をつとめた家柄だ。



義元が三河守になったか否か不明だが、そのころから松平は今川の勢力下におかれていた。

織田と今川の対立は以前からあり、信長の父の信秀も、1542年に今川軍を小豆坂で撃退している。信長軍もその経験も活かしているはずだ。

桶狭間の決戦は、今川と織田が主役だが、今川方で参加した松平元康(家康)の行動は、小和田さんの本に詳しく書かれている。

大高城に兵糧を入れるには二つの砦を突破しなければならない。夜陰に、一部の兵を寺部城に差し向け放火させる。
丸根、鷲津砦の織田軍が飛び出して寺部城に向かった間に、元康軍は大高城に兵糧を運びこみ、翌朝には、二つの砦も陥落させた。





この日の夕刻に、桶狭間の戦で義元の死が確実となると、また夜陰に岡崎城近くの大樹寺に戻り陣を構え、城内の様子をうかがう。
岡崎城代の三浦上野介は、一刻も早く駿府に帰りたいが、城を放り出しては帰れぬと逡巡していたところに、元康が来たので喜んだ。
しかし元康は、今川家御当主の指示がなければ、と一向に動かない。
三浦は、織田軍がくるまでわれらをここに留めおく策略か?と疑い、夜逃げ同然に城から遁走した。
元康は、今川から引き継げば、預けた城だ、返せといわれるが今川が捨てた城なら、拾うても氏真は文句を言えまいと、悠々と岡崎城に入城した。
何事にも慎重な元康らしい話である。しかも妻子を駿府に置いたまま、御家再興のための決断であった。

その後家康は三河國内の今川勢力の掃討と、織田信長との同盟にむかう。

このような正史にたいして、今年の大河は情けない家康様が描かれている。

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