2020年12月16日水曜日

明智光秀の居城

大河ドラマ「麒麟が来る」では、 比叡山焼き討ち作戦に成功した功績で、信長が光秀に、近江滋賀郡一国を与えられ、坂本城を築くことを許されたということになっていた。

しかし史実では、その前哨戦の朝倉・浅井軍との戦いで、坂本の近くの地に築かれていた宇佐山城を守っていた城主・森可成が討ち死にでなくなっていた。近江から京都にはいるが街道の監視役のこの城の新しい城主に、信長は光秀を選んでいた。信長の信頼はこのころから厚くなっていたと思われる。

大河では、光秀が比叡山焼き討ちに反対したイメージが強かったが、実際は光秀が積極的に関与していたのではないかとの可能性が指摘されている。焼き討ち前年に比叡山に近い宇佐山城(滋賀県大津市)に入った光秀は、周辺勢力の懐柔を行っており、焼き討ち10日前の書状の中で、比叡山に与する仰木の地を攻め「撫で切り(皆殺し)」にしなければならないと述べているからだ。

信長へ仕えはじめてからメキメキと頭角をあらわし、比叡山焼き討ちで戦功があった光秀は、近江志賀郡5万石が与えられ、居城として琵琶湖に面した地に城を築いたのが坂本城(滋賀県大津市)である。

宇佐山城は、1571(元亀2)年に光秀が坂本城(大津市)を築いたと同時に廃城になったとされている。しかし、立地の重要性を考えると、光秀が去った後も使用された可能性は否めないという。


             三井寺から北方の宇佐山を望む

光秀が建てた坂本城は史料によると、琵琶湖から船で乗り入れができ、驚くべきことに天守が立っていたという。安土城より以前に築かれたこの天守には、大天守と小天守があったようなのだが、本能寺の変後に焼失。すぐに再建されるも大津城(滋賀県大津市)新築のため城は取り壊され、坂本城の資材はすべて大津城で再利用された。そのため残念ながら、坂本城はほとんど遺構が残っていない。琵琶湖の水位が減少すると、なんとか石垣が顔を覗かせる幻の城となってしまった。

その後、丹波攻略を命じられた光秀は、亀山城(京都府亀岡市)を築く。丹波平定後は領国経営の拠点とされた城で、三重の天守が築かれていたともいう。

本能寺の変に際しては、安土城で秀吉の援軍を命じられて、まづ坂本城にはいり、その後亀山城にいり、この城から軍勢を出発させている。
なお、現在残されている亀山城は徳川幕府によって近世城郭に生まれ変わったもので、光秀時代の遺構は残っていない。
       坂本城址公園に立つ明智光秀の銅像。遺構はほとんど残っていない。

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