2020年12月14日月曜日

明治初期の粕屋郡北部の小学校史

 江戸時代の庶民教育は、塾や寺子屋で行われていた。

明治新政府は日本を近代化させるためには、国民に広く知識を与えることが必要と考へた。

そこで、1872(明治5)年に学制を公布し、全国に小学校をつくり6歳以上の男女が身分に関係なく通うことを目指した。(6~9歳)

当初は塾や寺子屋の延長みたいな小規模の小学校が、各地に点在する状態であった。

粕屋郡史によると、郡で一番早くできたのは、明治5,6年に上の府と新宮であったと記載されている。これらは、村の有志や実力者の資金による学校で、県や郡による公的な資金による本校は、後追いの形で逐次建設されていった。

当時、校名には、地名でなく、舎號がつけられた。例えば、

青柳町:翠楊すいよう、箱崎:函崎かんき、筵内:園成えんせい など。

粕屋郡では、1~14番の学区を設定し、各学区ごとに小学校本校をつくるようにした。

明治13、14年ころまでにできた校区は、次のとおりである。

1)箱崎村本校:箱崎村 (:より右の村名は、本校区の範囲に含まれる村の名前)

2)松崎本校:名島、多々良、津屋村。(:以後は校区の範囲に含まれる村の名前)

3)蒲田村本校:土井、大隈、江辻、八田、名子村

4)仲原村本校:戸原、内橋、長者原、柚須、別府、原町、阿恵、御手洗村

以下本校のみ表記し、付属村を省略する。

5)酒殿村本校:6)宇美村本校:7)篠栗村本校:8)久原村本校:9)山田村本校:

以下に北粕屋部の部を記載する。

10)青柳町本校:立花口、小山田、筵内、青柳、的野、川原、今在家、新原、谷山、

         薬王子村

11)薦野村本校:米多比、舎利蔵村

12)古賀村本校:久保、濱ノ崎、庄、鹿部村

13)上和白村本校:香椎、長谷、下原、原上、唐原、奈多、上府、新宮、相島、濱男、

          下府、三苫、湊、三代、下和白、鹽濱村

14)志賀島本校:勝馬、弘村

明治8年頃のデータでは、粕屋郡全体の小学生数、1629.男子1493、女子136。

上位は、宇美87、箱崎80、青柳70などである。

小学校は、当初4年制の尋常小学校からスタートして、数年後にあと2年続く高等小学校

が追加された。

その後6年制の尋常小学校と2年制の高等小学校に改訂された。地区によりこれらが混在したので、各地方の郷土史でも記載に混乱がみられるので、明治初期の小学校史は、不正確なことがある。

和白地区の郷土史によると、明治6年に、上和白、下和白、塩浜、三苫を対象に、観欄小学校が、久保田氏の宅を借りて開設された。明治8年には塩浜小学校と改名、明治9年には、下和白の安河内氏の納屋に移転した。

奈多浦で明治14年に鯨がとれその剰余金を県に寄付して、明治15年に奈多に鯨学校ができた。



明治22年の人口データでは、奈多1363、上和白336、下和白262、塩浜188、三苫490人で、奈多の人口は大きかった。

奈多の鯨學校が明治14年にできて、刺激をうけた和白地区に、明治15年に公立

の和汐小学校ができた。

明治21年にも、鯨が捕獲され、その供養石碑が、九州大学農学部の敷地に存在していたが、現在は箱崎お茶屋跡の敷地に移設されている。

高等小学校は、10~13歳を対象にした学校で、粕屋郡では明治9年に箱崎宮の横の筑紫氏邸宅内に有志の寄付で最初の校舎がつくられた。

明治13年に、県立中学校の本校6校が出来て、郡部の箱崎や青柳などの13の高等小学校に、分校を置く計画であったが、県の計画が取りやめになり、郡では、箱崎第一高等小、青柳第二高等小として、校舎を建築した。


明治33年に青柳の分校として和白高等小学校ができた。校区は、和白、立花、原上、三代、下府、湊、新宮であった。



現在最大の和白小学校は、明治36年に第一校舎、明治42年に第二校舎、明治45年に第三校舎が完成している。



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