2023年6月10日土曜日

有田の三右衛門と人間国宝


有田焼

日本で初の赤絵付けの技法「柿右衛門様式」を開発し一世風靡したことで有名な酒井田柿右衛門(14代は九産大に在職中に数回ご指導をいただいた。)

 今もなお、色鍋島の品格を守り続けている今泉今右衛門。 

そして、絵付けの柄をインテリアやアクセサリーなどにまでも展開させた館林源右衛門。 

(今泉、館林氏の二人は、九産大の辻教授に紹介していただいた。)

この三つの窯元が「有田の三右衛門」です。

一般に三右衛門は、「今泉今右衛門(有田)」「酒井田柿右衛門(有田)」「中里太郎右衛門(唐津)」をいいます。

一方、有田三右衛門は、太郎右衛門(唐津)に代わり源右衛門(有田)が入ります。


また佐賀県が生んだ人間国宝(重要無形文化財保持者)には、

有田の井上萬二氏、十四代今泉今右衛門氏、武雄の中島宏氏

の三人がいます。

あまり知られていない館林、井上、中島の3人について、記載します。


館林源右衛門

有田焼・源右衛門窯会長の陶芸家6代目館林源右衛門は、11月27日午前11時40分、急性腎不全のため福岡市東区の九州大学付属病院で死去された。享年62。

昭和2年4月2日、佐賀県西松浦郡に生まれる。本名金子源。同20年3月、佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業と同時に家業の源右衛門窯で作陶に従事。

35年六代目館林源右衛門を襲名する。伝統的有田焼のひとつ「古伊万里」の技法、作風に興味を抱き、同45年に江戸時代に海外へ渡った日本陶磁器を調査するためドイツのドレスデン美術館蔵古伊万里第一次調査員に加わる。

その成果である「古伊万里の里帰り展」開催に協力したほか、作陶においても古伊万里の伝統を生かした現代陶磁を模索する。

洋食器に古伊万里の技法・様式を取り入れる試みから、布製品、服装、インテリアなどに古伊万里のデザインを生かした「源コレクション」の発表へと展開し、同56年には米国ミネアポリス、シカゴ、サンフランシスコで個展を開催。

同63年12月、日本文化振興会から国際芸術文化賞を贈られた。

著書 に『古伊万里のこころ館林源右衛門作品抄』(学研、昭和58年)がある。

源右衛門作品

わが家の源右衛門の皿a

わが家の源右衛門の皿b


井上萬二



有田の窯元に生まれたが、軍人を志し15歳で海軍予科練に。
復員後、父親の勧めで働いた柿右衛門窯で大物ろくろ師として名高い初代奥川忠右衛門の技に出合った。


修業に入って7年ほどの時。「初めて見る奥川さんの技のすごさに身震いした。『この人に近づきたい』という目標が、その後の修業の壁を乗り越えさせてくれた」。すぐに門下生となり、ひたすらろくろの技を磨いた。この青年期の出会いが今も井上さんの作陶姿勢の根っこにある。

29歳で柿右衛門窯を退社し、県窯業試験場の技官となった。
昭和44年には約5カ月間、米国・ペンシルベニア州立大から有田焼の講師に招かれ渡米。通訳なしの講義に苦労しながらも、逆に学生たちから得たものも大きかったという。


「米国は伝統が浅いから、創作の発想も自由。学生たちは同じ目的を目指しても、それぞれが違う道をたどる。常に新しさを求める姿勢を学ばせてもらった」。
有田という伝統の町に生まれた幸運を感じる一方、それに疑いもなく浸ることの危うさを痛感したという。


井上さんの作品は海外でも高い評価を得ている。これまでドイツやハンガリーで個展を開き、ことし3月にはモナコで国王の在位45年を記念した展覧会も開いた。「海外展といって気負う必要はない。日本の伝統美を見てもらい、納得してもらうだけ」。
マイペースを崩さないのは、白磁の美に自信があるから。その信念は大英博物館展でも変わらないだろう。


後進の指導に情熱を傾けてきた井上さんの教え子はすでに500人を超える。アメリカにも150人。その教え子たちが今年の誕生日に「古希」を祝ってくれたのがうれしかったという。
「意欲がなくなったら、作陶活動の終わりの時。まだまだ丸いつぼに心ひかれるうちは青年期」。作陶意欲はみなぎり続ける。







芸展総理大臣賞、83年に日本陶芸協会賞を受賞する。「中島青磁」と呼ばれる独創的な作品は高い評価を受け、96年にはMOA岡田茂吉大賞、藤原啓記念賞、佐賀新聞文化賞を受賞する。作品集のほか、95年には随筆集「弓野四季釉彩-中島宏の世界」を出版した。日本工芸会正会員。県重要無形文化財工芸技術保持者。




出展作品
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白磁緑釉牡丹彫文花器

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白磁丸形壷

中島宏
窯元を訪問したり、講演を聞いたりしました。
以前にかいたブログを記載します。

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