2023年8月14日月曜日

パレンバン奇襲と大東亜戦争

 パレンバン奇襲と大東亜戦争

     パレンバンとは今のインドネシア、マレー半島突先に位置し、石油基地で大きな貿易港でもあった。往時は連合国のオランダが占領していた。
アメリカを中心とする連合国から激しい経済制裁を受けていた日本は特に石油禁輸に対抗するため、このパレンバンを急襲するという軍事作戦、「陸軍落下傘部隊」で計画した。
昭和15年末より本格準備が始まり、昭和16年(1941年)12月の開戦に連動して実行され、石油基地の支配に成功し、ほぼ1945年終戦の間際まで石油精製の活動が続けられた。

ハワイの真珠湾攻撃、シンガポール陥落とともに、パレンバンの落下傘部隊降下作戦は、第二次世界大戦初期に日本が大勝した戦いとして大きく報道され、日本国内での戦意を高揚させた。
当時は、中野正剛もラジオ放送の演説で、「水の干上がった溝の鯉は、飛び跳ねて、水のある溝に飛び込むのだ。」とはなしていた。
私の叔父は、大日本航空のパイロットであったが、開戦前に軍属として徴用され、この落下傘部隊の輸送機隊長として出陣した。
作戦成功後、鈴木貫太郎大将らが現地視察のため出かけた飛行機を再度操縦したという。
そのとき貫太郎大将から、チップ100円を頂いたと話していた。
その後シンガポール海軍輸送隊長として活躍していたが、昭和19年に戦死した。
軍刀をもった叔父

 スマトラ島南部にあるパレンバンには、オランダ植民地時代にインドネシアの85%の石油を生産していたプラジュ油田とロイヤル・ダッチ・シェル製油所があった。
資源のない日本が戦争をする上で油田を制圧し、石油供給基地を確保することは、日本軍の南方作戦における最も重要な戦略目標だった。

この戦略は全体として成果を収め、世界戦争史上でも「落下傘部隊」という極めて難しい戦術が成功した稀有な例として記録されている。
 
パレンバン攻略を有利に務めたことで、日本の国民生活に石油資源を供給し、また軍事的には日本が連合国軍と平和交渉に臨む最後まで継戦能力を維持することとなった。

戦後、ゴルフ仲間だったNさんは、終戦後もしばらく石油工場で働き、戦時中慰問舞台できた藤山一郎歌手が、戦後のラジオ放送でアメリカの歌を歌っているのに激怒したといっていた。



大東亜戦争はかくして日本の敗戦で終わったが、日本は天皇制と国体を護持し、合わせてアジア、アフリカ諸国の植民地を欧米帝国主義から独立解放するという大きな成果をもたらした。

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