2023年8月5日土曜日

ウクライナの歴史概要(改訂版)

 ロシアのプーチン大統領は、「ウクライナは歴史的にロシア領土であった」と主張している。




歴史的にというのは、何時頃の時代をさしているのか、調べてみた。

人類史の起源は、四つの大沖積平野からはじまる。4大文明の時代では、欧州やロシアは未文明の地だった。



エジプト文明とメソポタミア文明が合流したアケメネス帝国が、紀元前6~4世紀には黒海周辺まで領有して、ウクライナ地区に文明が発生した。黒海は地中海の奥座敷として交易が発達していた。



8~14世紀ころまで黒海はギリシャ、カスピ海はイスラムの海だった。

キエフ・ルーシは9世紀末から13世紀にかけて、今のウクライナやロシアなどにまたがる地域にあった国です。

「キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。

キエフ・ルーシを形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つです。

東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウの始まりだとされています。

その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移し、キエフ・ルーシを建国しました。

キエフ・ルーシがヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ・ルーシは商業を重視して富を得ていたと考えられます。

例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。

その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。


キーウ(キェフ公国)

キーウ公国

その“栄光の国”キーウ公国がなぜ滅んだのか?

最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは諸原因で衰退過程に入っていたようです。

これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。

こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。


14世紀にバルカン半島に進出してきたオスマン帝国は、黒海の北岸地区まで領有した。


17世紀頃、ロシア皇帝は、清教徒の保護を名目に、オスマン帝国と戦う。

ロシアの南下を恐れたイギリスとフランスが、オスマン帝国側に援軍を送り、ロシアは敗北する。




ナポレオン戦争後もオスマン帝国の北上で黒海沿岸は、イスラム文明に感化されたが、セルビアは強い抵抗戦で独立を勝ち取った。






その後も、フランス革命、大航海時代、産業革命などを経て、欧州はいろいろ変貌した。

大航海時代に乗り遅れたロシアは、ピョートル大帝の時代に、スエーデンの海軍を破り、バルト海にサンクトぺテルブルクの都市を築き、念願の海運拠点とした。その次が黒海への進出であった。





第一次大戦ではロシアは、勝利後にイスタンブールを領有するという密約を得て、ドイツと戦った。




第一次大戦を経て、東欧州に多くの国が誕生する。
ニコライ2世がキーウを訪問した当時はウクライナは小ロシアとよばれていたが、その後ロシア帝国は革命により滅亡し、共産主義のソ連になる。

このころウクライナはソ連の領土に含まれている。文化的なものの歴史は、ウクライナから伝わったものが多いようだ。



第2次世界大戦中に、ウクライナはナチス軍に占領された時期があった。ウクライナ人はソ連から解放されたと思ったが、ナチスはそれ以上の悪政を残して逃亡した。

大戦後もスターリンのウクライナへの悪政は続いた。彼の死後いくらかウクライナがめぐまれたのは、ウクライナ育ちのフルシチョフがリーダだった時代であった。

1991年にソ連が崩壊して、CIS諸国が誕生する。


1967年にEC発足、1993年にEU発足。


1982年に私はハンガリーを訪問したが、まだソ連圏だった。ハンガリーは2004年にEU加盟が実現している。
その後ウクライナのEU加盟政策から、ロシアとウクライナとの対立がはじまる。東部の親ロシア派が反乱を起こしていた。ロシアはクリミアとの間に橋を建設して、自国と直結した。

お笑い芸能人だったゼレンスキーは反乱の終結を主張して大統領に当選し、プーチンと国際会議で会談したが和平交渉は成立せず、2022年2月24日にロシアの侵攻がはじまった。

2000年にプーチンが大統領に選ばれて以降、強いロシアの復活を標榜してきて、国民の人支持を集めてきました。
プーチンが崇めているのは、1721年に初代皇帝となったピョーテルである。彼はヨーロッパに負けない大国になりたいと、近代化をすすめ、サンクトペテルブルクという海岸都市を自らの指導で建設した。
プーチンも地中海につながるウクライナの土地は、EUに渡したくなかった。
ウクライナも、20年早くEU加盟を進めていたら、戦争にならなかったかもしれないが、海路の有無がハンガリーより厳しいかもしれない。

ロシアとウクライナの戦争は21世紀最大の悲劇として歴史に残るであろう。


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