去年の12月に玄界義塾で土師先生から忠臣蔵の講演をきいた。
吉良上野介の首を泉岳寺の浅野家の墓にとどけた赤穂浪士は、その後、高輪泉岳寺に近くに江戸屋敷があった4大名の屋敷に、赤穂義士は分配して預けられた。
(細川家:熊本市17人、水野家:岡崎市9人、毛利家:長府市10人、松平家:松山市10人)
泉岳寺の墓所でも、その順序で墓が並べられている。
土師先生の話でも、細川家だけが義士の除命嘆願を幕府にだしたことを聞いたが、昨日の「英雄の選択」では、細川家だけが、義士を英雄扱いで待遇し、他の3家は「罪人扱い」の待遇で預かったそうだ。
当時の庶民が作った川柳は、「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ 濁れる」
と、水野、毛利、松平を、批判している。
細川家の預かり担当の堀内伝衛門が、大石内蔵助をはじめ全員に親切に対応し、討ち入りの計画や討ち入り合戦の内容を詳しく聞き取って、覚書を作成しており、赤穂市の歴史博物館に保管されているそうだ。
最終的に、赤穂浪士は全員切腹となり、吉良家も断絶の結果となった。
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