2024年5月30日木曜日

摂政・関白をめぐる暗闘:藤原道長の覇権


 






網野善彦の「日本社会の歴史」の中に、藤原兼家・道長らの「摂政・関白をめぐる暗闘」が詳しく記載されている。

「安和の変」:冷泉天皇の後継者争いで、藤原氏と源氏の暗闘。
   村上天皇の子息の中で、源孝明の婿、為平親王がしりぞけられて左遷、守平親王が皇太子に立ち、さらに左大臣孝明は謀反の嫌疑をかけられて左遷され、失脚した。
 この事件は、藤原師輔、藤原師尹の陰謀により、行われた。


冷泉帝の即位

967年康保4年)5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。関白太政大臣藤原実頼、左大臣に源高明右大臣には藤原師尹が就任した。

冷泉天皇にはまだ皇子がなく、また病弱でもあったため早急に東宮を定めることになった。

候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子で、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王守平親王だった。

年長の為平親王が東宮となることが当然の成り行きとして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。その背景には左大臣源高明の権力伸張を恐れた藤原氏があった。

高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚となるのである。高明といえば、かつては村上天皇の信任篤く、また皇后安子の妹を妻として右大臣藤原師輔を岳父にもつ姻戚関係もあったが、この時点では両人とも既に亡く、高明は宮中で孤立しつつあった。

謀反の密告

969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵藤原善時中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明であるが、後代に成立した『源平盛衰記』には、高明が為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝に即けようとしていたと記されている。

右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模藤原千晴藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。

源高明の左遷

事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

密告の功績により、源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また左大臣には藤原師尹が替わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。

その後

971年(天禄2年)高明は罪を許され帰京するが、政界には復帰せず京郊外の葛野に隠遁した。醍醐源氏は政治の主導権を失うものの、高明の末娘明子東三条院詮子一条天皇国母、藤原道長実姉)の庇護を受けのちに藤原道長と結婚し、その縁で高明の子の俊賢経房兄弟は中央政界で順調に昇進し、それぞれ権大納言、権中納言まで栄達した。

円融天皇

守平親王の兄である冷泉天皇が即位すると、立太子をめぐり藤原氏と左大臣源高明が対立したが、康保4年(967年9月1日、藤原氏の主張が通って9歳の守平親王が皇嗣となった。対立はさらに安和の変(安和2年、969年3月)の勃発をもたらし、源高明が失脚した。

高明の娘を妃にしていた為平親王の存在は宙に浮き、5か月後の9月23日に冷泉が譲位、守平は円融天皇として即位する。

即位後すぐに親密だった同母姉の資子内親王を一品准三宮とした。

いまだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼摂政に就任。

天禄元年(970年)に実頼が死去すると、天皇の外舅藤原伊尹(これまさ)が摂政を引き継ぐ。

同3年(972年)1月3日に元服を迎えるが、その直後に伊尹が在職1年あまりで死去すると、その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが起きた。

天皇は亡母安子の遺訓に従って兼通を関白に任じた。翌4年(973年)、兼通は娘媓子を入内させ中宮とする。

当初、円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの「一代主」、すなわち中継ぎの天皇とみなされており、外舅である伊尹も兼家も娘を天皇に入内させる考えはなかった。

その中で安子所生の皇子女の面倒を見続けた兼通が天皇の唯一の後見として浮上し、安子の遺言で、円融天皇・関白兼通主導で新たな皇統形成が図られた

2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通は弟の兼家との対立から、外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。

当時兼家は自身の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたのに対して、円融には娘を入内させておらず、そのため円融天皇も兼家に含むところがあり、むしろ自身に娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。

しかし、その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。

前年天元2年(979年)の中宮媓子が死に、中宮が空席となったが、円融はすぐには代わりの皇后を冊立しようとせず、天元5年(982年)になって入内していた頼忠の娘の遵子を冊立した。

ただし遵子はこれ以前にも以後にも皇子女を産むことはなく「素腹の后」とあだ名された。

こうした一連の動きに立腹した兼家は、娘の詮子と外孫の懐仁親王を自邸に連れ帰り、出仕をやめた。

一方の円融天皇も2度にわたる内裏の焼失の際にも兼家への依存を拒み、関白頼忠邸や譲位後も仙洞御所として使用した故兼通邸の堀河殿里内裏として使用した。両者の意地の張り合いは収まらなかった。

やがて天皇は兼家に譲歩し、永観2年(984年)、息子の懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子・師貞親王に譲位し、花山天皇となり、自らは太上天皇となる。

寛和の変(かんなのへん):

寛和2年6月23日986年7月31日)に発生した花山天皇退位出家及びそれに伴う政変のこと。

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは花山天皇の外叔父藤原義懐と乳母子藤原惟成であった。二人は革新的な政治を行ったが、革新的な政策は関白である頼忠らとの確執を招き、さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。

そのため、宮中は義懐派・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。

ここに天皇の女性問題が加わる。藤原為光の娘・藤原忯子に劇的に心動かされた天皇は、忯子を女御にすることを望んだ。義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。深い寵愛を受けた忯子は懐妊するが、寛和元年(985年7月18日、17歳で死去した。

これにショックを受けた天皇は、僧・厳久の説教を聞いているうちに「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。

寛和2年(986年6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。

蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。

このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった道兼が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。

一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆藤原道綱らに命じ三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。

月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)

元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを見届けたのち、道兼は親の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇は欺かれたことを知った。

内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこで政治的な敗北を知り、共々に出家した。この事件は寛和の変とも称されている。出家にともない懐仁親王(一条天皇)へ譲位し、太上天皇となる。

寛和2年(986年)6月23日、寛和の変により花山天皇は懐仁親王に譲位し、数え7歳の一条天皇が立った。

このとき兼家は、正式の官位の右大臣を辞職し、摂政となった。摂政は政令の官職を超える最高の職であることを明確にし、人事権を駆使して、子息たちの官位を引き上げていった。

藤原道長の覇権:摂政家の確立

藤原家の長者となった兼家流が、摂政・関白の地位につく家格として定着していった。



兼家が死亡したあと、その子供たちの間での競合が續き、父のあと、摂政・関白になった道隆・道兼が、都で流行した疫病で相次いで世をさると、道兼の弟道長と、道隆の子伊周の間で、はげしい対立が起こった。

長徳の変として有名である。

西方浄土筑紫嶋: 【藤原伊周】長徳の変 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

この対立は、翌年決着がつき、一条天皇の母で自らの姉の詮子の指示で内覧となり、太政官の筆頭、一上(位置の上郷)として、事実上の関白となった道長は、自らの立場をしっかりと固め、

もはや宮廷のなかでは揺らぐことがなかった。真の意味での「摂政時代」は、ここからはじまった。

道長は、その娘彰子を、当時の皇后、

伊周の妹定子とならんで、一条天皇の中宮に入れ、一人の天皇に二人の后という新例を強引に開いた。

さらに一条天皇のあとを受けて位についた冷泉天皇の子三条天皇は、道長の甥であったが、道長との間に円滑を欠き、結局道長は三条天皇を無理やり退位させて、その外孫で彰子の子、後一条天皇の即位を実現した。
ついで道長は、三条の子皇太子敦明親王を辞退させ、同じく彰子の子で道長の外孫敦長親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子に立て、さらに娘の威子を後一条の中宮とすることに成功する。
「この世をば 我が世ぞと思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」という和歌を詠んだのもこの頃で、道長はまさに得意の絶頂であった。
道長はわずか1年ほどで、摂政も太政大臣も辞職し、彼のあとを受けて摂政となった子息頼道の背後にあって、「大殿」として実質的に国政を指導し続けることのなる。
このように公的な地位と、実質上の権力者「大殿」とを分離したことは、摂政家という「家」を成立して、実質の権力を世襲するという形態を形成したことを物語っている。

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