2016年6月24日金曜日

哲学の道

航空写真
哲学の道
   
熊野若王子神社


最近テレビでよくロケがされる哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。永観堂付近にある熊野若王子神社横から始まる。

この神社の御神木である椰(なぎ)御守をいただけば、いつも全ての悩みをなぎ倒すと言われている。
椰の葉の入ったお守り
熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れており、疎水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がる。そのため春は桜、秋は紅葉が美しい区間である。それより北側は両側が住宅地となり、疏水の両岸に桜並木が植えられている。歩道も東側にもある場合があるが、よく整備されているのは西側だけである。桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。

桜の季節
雪の季節


道は銀閣寺道バス停付近の白川通今出川交差点まで続く。

明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都学派の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが散策したため「哲学の小径」と云われたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。


1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。日本の道100選にも選ばれている散歩道である。

道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。

私が始めて歩いた昭和27年頃は、まだ石碑などなにもなかったが、哲学的情緒だけは、充分あった。

2016年6月21日火曜日

千利休の切腹の謎〔改訂)

千利休は晩年、秀吉と対立して、最後は切腹を命じられる。
その原因は、いろいろ挙げられている。

・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた。
大徳寺楼門
・安価の茶器類を高額で売り渡し、暴利を得た。
・秀吉が利休の娘を妻にと願ったが、娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否した。
・利休が徳川家康と密かに通じ、秀吉を毒を使って命を奪おうとしようとした。
・茶道に対する考え方で対立し、派手好みの秀吉にたいして、侘び寂びの茶道を利休が進めた。
・茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
・「真田丸」では、利休が小田原の北条方に兵器などを密売していたとしている。
・秀吉の側近としてのし上がろうとする三成にとって、秀吉の政治顧問的な存在であった利休は、目の上のタンコブであり、利休を嫌って、秀吉に「利休をこのまま泳がせておくのは危険である」と度々それとなく進言していた。
・秀吉は堺での貿易を次第に博多へ移し、さらに朝鮮出兵で九州に経済の中心が移ったことに反感をもつようになった。


利休と茶の湯の歴史:
信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用した。

後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心で、利休を第一の茶頭とした。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。

秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。

禁裏茶会の図

茶人ネットワーク


温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。

切腹までの経緯:
1591年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉に黒い茶碗を出した日から1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。

家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。
だが、利休はこれを断った。「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはず。秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになると。
利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。


利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。
26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。
27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。

利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。
晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。


茶を権力の道具として社会を征覇しようとする秀吉にとって、侘び茶の精神を貫く利休は邪魔者になってしまった。

最近の研究では、利休は切腹しておらず、九州に逐電していたという説がある。秀吉の九州からの手紙に、利休の茶を楽しんだと記されており、朝鮮征伐のときは、九州で再会していたらしい。



 

2016年6月19日日曜日

横須賀のドライドックと小栗上野介

「ブラタモリ」で、横須賀米軍基地見学の番組をみた。

この見学のクライマックスとでもいうべきは、ドライドック。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕等のため、フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設である。

驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことだ。
大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったが、施設の建造を新政府は受け継ぎ、日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めた。

そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所や造船所を作ることを計画した小栗上野介忠順(オグリン)である。
小栗は三河時代から徳川家の2500石の旗本の家柄で、いろんな奉行職を歴任し、安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として渡米し、勝海舟が先にに帰国したとき、ワシントンまでいって大統領に謁見し、米国の最新技術を学んで帰国している。
当時幕府は、外国から購入した44隻の故障の多い船に要する修理に頭を悩ませていた。
当時軍艦奉行の小栗は、国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説いたが、幕府は当初財政難を理由に決定を渋った。勝海舟も時期尚早と反対していた。
小栗はそれを押し切る形で了承を取り付け、フランス技術陣の指導により、地震対策を考慮して山を削ってドライドックを建造した。

江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗だが、その後、彼は江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、維新政府によって斬首されてしまった。
 つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、反逆者として死んだことになるが、彼が中心となった製鉄業、造船業の勃興は、他でもないその明治新政府がその遺志を受け継ぎ、日本をその後、重工業国と成っていった。



新政府のなかでも、大隈重信は小栗を高く評価し、その遺族を擁護した。

東郷元帥も日本海海戦の勝利は小栗のおかげとまで評価していた。
なんともこれは、歴史の皮肉という他はない。

小栗の顕彰碑には、「偉人小栗上野介、罪なくして此処に斬らる」
と刻まれている。
その子孫ではないが、小栗姓の俳優、小栗の親と娘がTVで有名になっている。


2016年6月18日土曜日

小牧山・長久手の戦い

本能寺の変のあと、秀吉は光秀を討ち取り、織田の跡目を継いだ。
一方家康は武田の領地を奪い、織田信雄と組んで秀吉と対決し
た。信長と同盟者だった家康は、信長の家臣だった秀吉より格が
高いという意識だった。



家康の誤算は、味方の池田恒興や森長可が寝返って秀吉についたことだ。
そこで家康は小牧山城に堅固な防衛線を作り、対峙した。
秀吉は、家康をおびき出す作戦をたて、池田や森を密に三河に送り込んだ。
家康はこの作戦を予知していて、彼らを待ち伏せし、長久手の戦いで二人とも討ち取った。
その後秀吉は長期戦に持ち込み、織田信雄と和睦をしてしまった。
家康は織田信雄の和睦で大義を失い、腹心の石川数正の秀吉への転身で、秀吉との対決をあきらめて、平和交渉のみちをえらんだ。

2016年6月15日水曜日

歴史遺跡修復技術の発展


1)小さな出土品:
古賀市の船原古墳から出土した装飾馬具は、九州歴史資料館のX線装置で3D計測して、綺麗な形に復元された。








2)大きな壁画:
バーミアンの大仏の天上壁画は、爆破前に撮影されていた写真などから、東京芸術大学のグループの技術で、きれいに復元された。
大仏の天上壁画



復元平面図


バーミアン大仏

3)大仏:バーミアン大仏は本体の写真はあるが、3Dのデータがどの程度計測されているか?

鎌倉の大仏やロダンの彫刻などの文化財を、東大の池内教授が正確なレーザー計測をされているから、復元可能だ。

4)宮殿や寺院:
最近は航空機撮影による大規模の遺跡計測の技術がすすんでいる。アフガンのアイナク地区の宮殿は、欧州勢の技術陣がドローンを使って計測し、CGで復元した図がすでに完成している。

しかし宮殿や寺院などは、実在する場所へ観光客が足を運ぶことが重要で、バーチャルだけでは迫力がない。