千利休は晩年、秀吉と対立して、最後は切腹を命じられる。
その原因は、いろいろ挙げられている。
・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた。
後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心で、利休を第一の茶頭とした。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
切腹までの経緯:
家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。
その原因は、いろいろ挙げられている。
・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた。
大徳寺楼門 |
・安価の茶器類を高額で売り渡し、暴利を得た。
・秀吉が利休の娘を妻にと願ったが、娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否した。
・利休が徳川家康と密かに通じ、秀吉を毒を使って命を奪おうとしようとした。
・秀吉が利休の娘を妻にと願ったが、娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否した。
・利休が徳川家康と密かに通じ、秀吉を毒を使って命を奪おうとしようとした。
・茶道に対する考え方で対立し、派手好みの秀吉にたいして、侘び寂びの茶道を利休が進めた。
・茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
・「真田丸」では、利休が小田原の北条方に兵器などを密売していたとしている。
・秀吉の側近としてのし上がろうとする三成にとって、秀吉の政治顧問的な存在であった利休は、目の上のタンコブであり、利休を嫌って、秀吉に「利休をこのまま泳がせておくのは危険である」と度々それとなく進言していた。・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
・「真田丸」では、利休が小田原の北条方に兵器などを密売していたとしている。
・秀吉は堺での貿易を次第に博多へ移し、さらに朝鮮出兵で九州に経済の中心が移ったことに反感をもつようになった。
利休と茶の湯の歴史:
信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用した。
秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
禁裏茶会の図 |
茶人ネットワーク |
温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。
切腹までの経緯:
1591年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉に黒い茶碗を出した日から1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。
家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。
だが、利休はこれを断った。「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはず。秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになると。
利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。
利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。
26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。
27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。
利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。
晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。
茶を権力の道具として社会を征覇しようとする秀吉にとって、侘び茶の精神を貫く利休は邪魔者になってしまった。
利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。
利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。
26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。
27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。
利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。
晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。
最近の研究では、利休は切腹しておらず、九州に逐電していたという説がある。秀吉の九州からの手紙に、利休の茶を楽しんだと記されており、朝鮮征伐のときは、九州で再会していたらしい。
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