平家追討の兵を上げ、関東で転戦して、富士川で勝利する。
源頼朝 |
源義経 |
頼朝が作った幕府という政治組織は、清盛の武家政治の失敗を教訓として、多くの独創性を発揮している。アジア大陸や欧米にも見当たらない特異な形態である。
1)京都の朝廷と距離をおき、関東平野の鎌倉という要害の地に幕府の拠点をおいた。
そして朝廷と幕府による2元政治を創った。海岸にあった鶴岡八幡を中央部に移し、大仏を建立した。
鎌倉鶴岡八幡 |
3)清盛の交易振興や通貨制度を排して、土地と農耕の経済を主要なものとした。鎌倉幕府の後半に和賀江島に港を作り交易をした。
和江島記念碑 |
和得島遠景 |
4)個々の地方豪族を支配する平家の目代制度でなく、御家人制度(御恩と奉公の封建制度)により地方豪族を支配し、守護・地頭として各地に配した。
これらの政策の原点は、頼朝と北条政子の婚姻関係から出発していた。
伊豆で流浪の身であった頼朝は、地方豪族の娘と結婚し、その婿となるのを出発点と考えていた。
そして30歳で平家討伐の兵を起こすチャンスが到来し、関東武士団の頂点にのしあがった。
源氏族には義弟の範頼、義経、木曽義仲など、関東武士団には、三浦、比企、安達など多くの一族がいた。
頼朝が健在なうちは、一枚岩であった鎌倉幕府の政治も、彼の急死以後は波乱の運命をたどった。
生存中も木曽義仲とは、平家追討の戦で仲たがいをして、義仲を倒し、娘の婚約者だった義高まで殺害しため、娘の大姫は病死してしまった。義経、範頼との確執も有名で、すべて倒してしまった。
死後は若い息子二人の無能力で、直系の政治は絶え、武士団の合議制となるが、次第に北条氏が勢力をつよめる。
まづ頼家に近かった比企氏が倒され、政子の弟が執権の職につく。
鎌倉幕府の最大の危機は、後鳥羽上皇による承久の乱である。後鳥羽上皇は幕府打倒を計画し、1221年(承久3)5月、北条義時追討の院宣を発した。
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