2013年1月2日水曜日

源頼朝の幕府政治と政子

平清盛が終わり、源頼朝の時代となるのに10年かかっている。
平家追討の兵を上げ、関東で転戦して、富士川で勝利する。

源頼朝
その後平氏を壊滅させるのに5年、平家残党や義経支援派を壊滅するのに5年。
源義経
後白河院が亡くなってやっと征夷大将軍の冠位をもらい、幕府の組織や政治体制がととのった。
頼朝が作った幕府という政治組織は、清盛の武家政治の失敗を教訓として、多くの独創性を発揮している。アジア大陸や欧米にも見当たらない特異な形態である。
1)京都の朝廷と距離をおき、関東平野の鎌倉という要害の地に幕府の拠点をおいた。

そして朝廷と幕府による2元政治を創った。海岸にあった鶴岡八幡を中央部に移し、大仏を建立した。


左の旧大銀杏は倒れたが、右の新銀杏が育ちはじめている。

鎌倉鶴岡八幡

2)朝廷の冠位にこだわらず、貴族とも距離をおいた。冠位をもらってもすぐに返上し、朝廷や貴族との婚姻政策も殆どとらなかった。
3)清盛の交易振興や通貨制度を排して、土地と農耕の経済を主要なものとした。鎌倉幕府の後半に和賀江島に港を作り交易をした。
和江島記念碑

和得島遠景






4)個々の地方豪族を支配する平家の目代制度でなく、御家人制度(御恩と奉公の封建制度)により地方豪族を支配し、守護・地頭として各地に配した。
これらの政策の原点は、頼朝と北条政子の婚姻関係から出発していた。
伊豆で流浪の身であった頼朝は、地方豪族の娘と結婚し、その婿となるのを出発点と考えていた。
そして30歳で平家討伐の兵を起こすチャンスが到来し、関東武士団の頂点にのしあがった。
源氏族には義弟の範頼、義経、木曽義仲など、関東武士団には、三浦、比企、安達など多くの一族がいた。
頼朝が健在なうちは、一枚岩であった鎌倉幕府の政治も、彼の急死以後は波乱の運命をたどった。
生存中も木曽義仲とは、平家追討の戦で仲たがいをして、義仲を倒し、娘の婚約者だった義高まで殺害しため、娘の大姫は病死してしまった。義経、範頼との確執も有名で、すべて倒してしまった。
死後は若い息子二人の無能力で、直系の政治は絶え、武士団の合議制となるが、次第に北条氏が勢力をつよめる。



まづ頼家に近かった比企氏が倒され、政子の弟が執権の職につく。

鎌倉幕府の最大の危機は、後鳥羽上皇による承久の乱である。後鳥羽上皇は幕府打倒を計画し、1221年(承久3)5月、北条義時追討の院宣を発した。




このとき幕府側では、政子が、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。
そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
そのときの訴えの内容は、下記の写真のとうりで、心理的に武士団の魂をつかむ内容だった。

とくに三浦氏の一部が朝廷側についたが、三浦氏を逆臣として朝敵となるのを避けた表現が功を奏したという。
この5年後に政子もなくなるが、元寇の難を乗り越えて、鎌倉幕府は約150年続いたのには、政子の力がおおきかった。



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