東大の総長を辞職したあと、九州大学や九州工大の総長を務めた山川健次郎氏はよく知っていたが、その一家のことをあまり知らなかった。
山川健次郎 |
妹の捨松のほうは有名人なので知っていたが、今回の大河ドラマで、健次郎の兄の大蔵が登場すろようだ。
大蔵は国家老・山川家の長男で、15歳で父を失い家督を継ぐ。八重とは同い年。子どものころから優秀な大蔵にとって、勝気な八重は目の上のたんこぶ。(しかし、ぶつかりながらも淡い初恋の相手として八重を意識するようになる役柄のようだ)。
18歳で物頭役(いわゆる侍大将)、一時期、尊王攘夷思想に感化されたが、ロシア留学を経て攘夷の非を悟る。
会津戦争では、西軍に包囲された鶴ヶ城に会津の伝統芸能「彼岸獅子」を舞いながら入城するという離れ業を演じ、敵味方に「知恵の山川」とたたえられる。
敗戦後、斗南藩の大参事として旧会津藩士たちをまとめ、朝敵の汚名をそそぐべく奔走したという。
兄弟全員が明治維新の歴史の中で、活躍した人物であった。
健次郎については、下記のブログに記載している。
http://gfujino1.exblog.jp/2971291/
今日、八重の桜の紹介雑誌を本屋で立ち読みしたら、健次郎も捨松もドラマに登場するようだ。楽しみにしておこう。
当時の逸話:
戊辰戦争で会津若松の鶴ヶ城から、凧が揚っていた。
揚げていたのは、出羽房吉。後の海軍大将出羽重遠だった。
少年ながら、官軍を愚弄し、城内では弾丸運びなどをして活躍した。
前述の會津白虎隊にいたといわれるのが山川健次郎。
明治40(1907)年6月に明治専門学校(現在の九州工業大学)の総裁を務め、明治44(1911)年4月には九州帝国大学の初代総長に就任した。
この山川健次郎の兄は明治維新以後山川浩と名乗る。
山川浩 |
西南戦争では官軍として熊本城に一番乗りを果たした。
これを気に食わなかったのか、長州閥の某が、西南戦争後、山川を法務官に任じ、竹橋事件(近衛兵の反乱)での首謀者を裁かせた。(近衛兵でありながら、西南戦争後、天皇に直訴を試みた反乱部隊首謀者を裁く。)当然、かなりの人数の銃殺刑を下さなければならなかった。
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