2014年10月11日土曜日

安曇族の歴史(その一)

安曇族は古代日本を代表する海民族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
安曇族(阿曇族)の存在を示すアズミの地名は、九州から山形縣まで、16ヶ所ほどある。
「海民」といわれているが、山梨、長野、岐阜県など海の無い場所にも点在している。
日本列島の海民は、縄文時代から、海をこえて大陸と交渉した形跡が残されており、また南方系海民の人骨や文化遺品が西日本では出土している。


金印が奴国の王墓でなく、安曇族の拠点といわれる志賀島で出土したことから、安曇族は奴国の有力な氏族だったことがうかがわれる。
志賀島の志賀海神社には阿曇磯良が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。
日本書紀によると、安曇族の始祖、安曇大浜宿禰が273年海人の宰に任命され、海人たちの統率者となった。この時期は安曇族の初期全盛期であったといえる。
{大浜宿禰は応神天皇3年各地の海人(あま)がさわいで命にしたがわなかったのをしずめた­という。以後海人の統率者となった。福岡市の海の中道北端に大岳丘陵があり, ここには、筑前風土記逸文に出てくる大浜宿禰を祀る大嶽神社が鎮座している。)
海の中道の先端の志賀島の志賀海神社には、阿曇磯良宿根が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。その境内から海の中道塩屋崎・新宮・古賀・津屋崎方面の海がみえる。
北部九州の海民としては、安曇族、宗像族、住友族が知られているが、全国規模からみると、もとは同族だと考えられる。
安曇族はその後、九州から次第に東遷して活躍の場を全国にひろげる。
日本書紀によると、その後401年に履中天皇の即位問題にからみ、阿曇連浜子が住吉仲皇子のクーデタに加担して捕らえられ、罰せられた。この事件以後の約200年間は中央政治の舞台からは姿をけして、安曇族の衰退期となる。
推古天皇の時代になると、蘇我氏との結びつきが強くなり、日本書紀でも、多くの安曇族人が登場して膳部や法頭として活躍する。第2の全盛期で、特に阿曇比羅夫が外交官として大活躍する時代である。この頃の安曇族の活躍拠点は北部九州から近畿地方にうつっている。
{安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、7世紀中頃の外交官・武将。舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。
661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡り、大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。
安曇族の活躍はその後も続くが、桓武天皇の792年に安曇宿禰継成が佐渡に流罪となり、以後は中央政界から姿をけしてしまう。
{延暦11(792)年3月18日、内膳奉膳であった継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。}
地元の宮地嶽神社との直接の縁はあまり知られていないが、宗像大社との縁は古くから深い。
『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善だろうという説が有力であった。これが安曇族と宗像族の縁を示す一例であろう。
宗像族は朝臣、安曇族は宿禰の冠位だったが、日本書紀には安曇族のほうが多く記載されている。
3年前に安曇族のシンポジュームを聞いたことがあるが、今週のシンポジュームでさらに詳しい話が聞けた。
つぎのブログでその内容を示す。
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_19.html

また安曇族はRKBラジオでも放送されたことがある。塩の道から空の道という60周年記念番組で、日曜の夕方のシリーズ番組だった。
そのディレクターの津川さんが古賀の玄界塾で講演をされたこともある。
信州の安曇からみて九州の安曇族との関係をさぐる番組で、九州の磐井君との関係がかなり深いことがいろいろ立証された。

安曇族のイメージとしては海の民であり、本来は磐井君の配下で玄海を制覇していた。
 造船技術、操船技術、製塩技術、砂鉄精錬などが得意なうえに、海外との交易がうまく、日本側の輸出品としては塩やヒスイをとりあげ、韓国側の鉄鋼石や鉄製品を輸入していた。

磐井の乱の敗戦で九州を追われ、ヒスイのルートを経て信州に定住した。信州での安曇の名前は650年頃の大和の文献ではじめてみられるという。
九州と関連する地名、仏像、伝説、食べ物など沢山の事例がで
てきた。

 石川県の志賀町の名前のいわれはいろいろあるが、一説には金印で有名な九州の志賀島とのつながりが言われている。

 

 安津見に鎮座する奈豆実比咩神社は安曇連の祖豊玉比咩命を祭るが、安曇連は北九州の志賀島を本拠地にする。志賀は安曇連の日本海における拠点をなしていた。(志賀町史による)



安津見に鎮座する奈豆実比咩神社


奈豆美比咩神社祭神伝説の地(石碑の文書)

 

 われら住民が、おたびと尊称するこの地は上古、安曇氏の祖神、豊玉比咩命が来臨せられし所なり、と社伝は伝えている。

 西北方に望む宮山大御前は、もとの御本殿跡地であることから、祭礼の神輿渡御にあたっては、まず最初にこの地に渡御し、大御前の方向に神輿を据え神祭をつとめ、その後氏子内を渡御する慣行が、今も継の椨の承されている。

 巨大な神木タブの老株が臥龍の状を呈しているのを始め、姫榊・﨔・杉など長い歴史を物語っている。

 奈豆美比咩神社ハ、古く延喜の式内に名をとどめ、この地もまた旧石造鳥居など貴重な遺構があり、祭神伝説地として神跡深遠であり昭和48年10月23日志賀町文化財史跡に指定された。

 われら住民こぞってこの地を貴重な神域として顕彰するものである。

    

       奈豆美比咩神社宮司 田中外余成 謹書


最近志賀町に原発が建設されたが、地震その他の事故が多く、運転停止しているそうだ。
「君が代」の発祥の地は、志賀海神社という説。
 君が代の歌詞は志賀海神社の神楽です。明治になり、国歌として採用されたのが志賀海神社の神楽です。
 君が代の「君」とは、この地を治めていた安曇氏のことです。安曇氏とは、海の神様である綿津見の子孫とされ、志賀海神社は海の神様の総本社です。綿津見の娘の玉依姫は、初代神武天皇の母です。
 君が代は、安曇氏の双六歌と言われています。
 千代に八千代にの千代は、博多区千代で、千代の松原です。
 さざれ石は、伊都国の王族の墓の場所で現在の細石神社
 いわおは、伊都国の中心地、
 苔のむすまでは、糸島志摩の苔むす姫に会いにいった。




西方浄土筑紫嶋: 安曇族の歴史(その二) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)安曇の地名分泌図

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