2015年9月1日火曜日

【大内義隆自刃】天文二十年(1551)9月1日

 大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自刃。9月1日、享年45歳。また山口に滞在中の、公家で武田信玄夫人の父・三条公頼らも殺害される。公頼享年57歳。 

大内義隆
  
  守護大名から戦国大名へと、山口県の旧国周防を根拠地に大内氏は中国地方から北部九州にまで、勢力を拡大していました。
大内氏といえば室町時代のイメージがあり、かつての足利三代将軍義満公が畏れた程で、その勢力を削ぐため、戦をしております。
さらにそれ以前よりの大内氏の存在があり、源平合戦の鍵を握っていた形跡もあるようです。
 南北朝時代に北部九州は、豊前に目を向けると地頭職として赴いた宇都宮氏も、南北朝時代の戦いに敗れ、大内氏の被官となり宇都宮氏一族分裂の要因ともなります。

 
 天文十年(1541)十一月に尼子経久が没すと、大内義隆は翌年より出雲遠征を行い、尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)を攻めますが、味方の離反があって大敗を喫し、同十二年五月に意気消沈して山口に帰陣します。その際に尼子氏の追撃により養嗣子晴持をも失った義隆は、寂しさを紛らわせるためか、次第に文化に傾倒していきました。

 この頃から大内氏の内部で不協和音がはっきりと表面化し、軍事派の晴賢(当時は隆房)と、文治派で義隆の寵愛を受けていた相良武任とが対立、このため陶晴賢は義隆から距離を置かれる事になります。
そんな中、同十九年に晴賢は謀反の意を固めると毛利元就の抱き込みを企て、毛利氏も一旦は同調します。そしてこの年の八月、跡嗣ぎとして大友晴英(大内義長)を擁した晴賢は、富田若山城(山口県周南市)を出陣、山口を襲いました。

 事前に晴賢の動きを察知していた義隆は法泉寺へと避難しますが、晴賢の他に重臣の杉・内藤両氏も加わった五千余の兵は山口に乱入すると寺の門前へと迫りました。

義隆は三千の兵で警備していましたが晴賢の攻撃を防ぎきれず、晦日の夜陰に乗じて脱出し長門へと向かいます。
この日の夜明けに何とか長門仙崎(同長門市)に到着すると、ここから乗船して脱出を計りますが、沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入りました。 
大寧寺
 しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、義隆は最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろしました。
大内義隆の墓
 
別の説によると、大内義隆の軍は九州に逃げるため川棚ケ原まで来た時、陶晴隆の軍に追いつかれ、ここで合戦をしました。
ここの大きな楠木の下には、川棚ヶ原の合戦で陶晴賢に敗れた大内義隆氏の雲雀毛の愛馬が埋葬されていて、この辺の集落では夜な夜な馬の嘶きが聞こえてくるという言い伝えがあり、「霊馬の森」とも地元の人は言っています。

敗れた大内義隆氏の一行は、近くの室津の浜から地元の漁師の船で九州へ逃げ出したが、風向きが変わり、目指したのが長門市の只の浜で、大内義隆氏の終焉の地は長門市湯本にある大寧寺となりました。
その後陶晴賢もやがて毛利元就の謀反にあって生涯を閉じました。
毛利元就


 この混乱の間に、わが立花城は大友勢が大内勢から取り戻し、1551~1587年間(柳川移封まで)大友勢のものとなります。
 ただし1569年の立花鑑載の乱で半年ほど毛利に占領された期間がありました。まさに戦国時代の混乱の連続です。


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