今年の大河ドラマは真田丸。 その主人公の真田信繁(幸村)は九州とは無縁の人物に思れているが、秀吉の朝鮮出兵の時期には九州の地を踏んでいるのは確実だ。 さらに大阪夏の陣のあとの逃亡伝説を、信じている人が九州には結構多いようだ。 天正19年 (1591)幸村25歳 9月 秀吉、諸大名に朝鮮出兵を命じる。 文禄1年 (1592)幸村26歳 2月上旬 昌幸、信幸、幸村、朝鮮の役に参陣する。肥前名護屋に赴く。 真田親子で500騎をそろえ、幸村は馬廻り(親衛隊)をつとめる。 文禄2年 (1593)幸村27歳 6月 秀吉、和議7ヶ条を明使に示す。 8月 昌幸、名護屋より大坂に帰り、ついで上田に帰る。
慶長3年 (1598)幸村32歳 8月18日豊臣秀吉病死。 11月朝鮮からの撤兵完了。 |
大阪夏の陣で真田幸村は、事前に自分が掘ったトンネルで豊臣秀頼、淀を連れて大阪を脱出して九州の島津氏まで逃れたという、良くある英雄不死伝説があり、秀頼の墓もある。
豊臣秀頼をともなって大坂城を脱出して鹿児島に逃れた
真田幸村は、頴娃町の雪丸に居宅を与えられたという。
さらに島原の乱の総大将・天草四郎が豊臣秀吉の孫で、
秀頼の子というウワサが天草にある。
豊臣秀頼を逃がしたというウワサもある。
ちなみに、秀頼の長男・国松は、
北の政所・ねねの実兄で立花藩(大分県)主・木下氏に
預けられた後、木下氏の実子ではないことから、
立花藩から分家して、日出(ひじ)藩主となったのは
公然の史実である。
別説1: 翌年5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。
この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。
しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかったと記している。
豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃(えの)郡の浄門ケ嶽の麓に住んだという。
幸村の兄・信幸の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸(ゆんまい)」は「幸村」の名に由来するという。
(大阪城天守閣研究主幹 北川央)
別説2:日出藩主だったわが木下家には、まったくちがうストーリーが代々伝わってきました。捕らえられて斬首されたといわれている秀頼の息子・国松に関するものです。
国松は真田幸村の嫡男・大助らとともに薩摩の伊集院(現日置市)に逃れた。恐らく、島津家の軍船で落ち延びたのでしょう。その後、薩摩でもかくまいきれなくなったのか、国松は日出藩に来ます。
国松は、2代・俊治の弟として延由と改名し、羽柴の姓を与えられ、日出藩3万石のうち5千石を分封され立石藩主になった。これが口伝で伝えられてきたのです。うちの分家ともいえるその家は、明治時代まで続きました。
わが家の言い伝えは、秀頼に関しては触れていません。ただ、鹿児島市の木下郷と言われていた集落には、こんな話が残っていたそうです。大坂夏の陣が終わると200人以上の集団移住があった。移住してきた人々は、どことなく高貴な人たちで、農業や商売をすることもなく、飲み食いをしても、その代金を払うこともなかった。あとから島津家の者がやって来ては、その分のお代を払っていったことを考えると、移住者たちは秀頼とその家臣たちだったのではないか──。
現地には、秀頼のものとされる墓もあります。歴史には表があれば裏もある。私は、そう考えています。
( 横山 健)
0 件のコメント:
コメントを投稿