私が6年生の時の机の上板の裏には、初代に中野正剛、二代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。
20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。机は空襲で焼けてしまったのが残念だ。
また、5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。
また、5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。
だから戦時中は、中野正剛のファンであった。ラジオでの講演などは熱心に聞いた。
今でも中野、緒方の偉大な政治家との、わずかな絆が私にあるのは有難い。
今でも中野、緒方の偉大な政治家との、わずかな絆が私にあるのは有難い。
中野正剛 |
緒方竹虎 |
この石碑の文字は緒方の書 |
緒方竹虎の下手上手の書「力行近于仁」:(りっこうきんうじん)と読む。 (漢和辞典引き引きの読み) 意味は、「誠心誠意、人のために尽くすことが仁の心に近づく道」(意訳) 『礼記』からとった言葉。 緒方は、ヘタウマ文字を自宅の表札にも使っていた。 |
緒方竹虎の弟は緒方龍という医師。大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、大陸、半島から引き揚げてくる邦人の治療を行った。その場所は博多港に近い聖福寺(福岡市博多区)だが、そこに野戦病院のような病院を開いた。そこには、ソ連兵、満洲人、朝鮮人に強姦され、妊娠した女性たちもおり、ひそかに二日市温泉(福岡県筑紫野市)の二日市保養所で堕胎手術を行った。麻酔無し、悲鳴が近隣に響いたという。堕胎手術を受ける女性たちは声をあげなかったと伝わるが、後に、それは美談であったことが判明。
この二人ほど有名ではないが、真藤慎太郎は玄洋社に所属し、中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得し、日露戦争開戦後、通訳として従軍した。
その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。
1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け北海道第三区から出馬して当選。また、北海道水産業会長として戦時下の水産統制を担った。
この3人を教えた柴田文城先生は、頭山満の縁物で、白馬に乗って出勤していたという。
正剛が好んだ漢詩、「欲 窮 千 里 目 更 上 一 層 樓」や「豪傑之士雖無文王猶興」などを小学校で教えたという。
最近百周年記念誌を読み直してみたところ、さらに先輩の山座円次郎、安倍磯雄も出身者であることが解かった。
その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。
1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け北海道第三区から出馬して当選。また、北海道水産業会長として戦時下の水産統制を担った。
真藤慎太郎 |
この3人を教えた柴田文城先生は、頭山満の縁物で、白馬に乗って出勤していたという。
正剛が好んだ漢詩、「欲 窮 千 里 目 更 上 一 層 樓」や「豪傑之士雖無文王猶興」などを小学校で教えたという。
最近百周年記念誌を読み直してみたところ、さらに先輩の山座円次郎、安倍磯雄も出身者であることが解かった。
山座は外務省で広田弘毅を育てたことで有名で、安倍は社会主義政党の創設者である。
山座圓次郎は、小野隆助(玄洋社員、衆議院議員)の助力を得て東京帝国大学に進学し、外務省へ。
後輩には、山崎拓や太田誠一がいるが、あとに続くものがいるのかな?
山座園次郎 |
安倍磯雄 |
山座圓次郎は、小野隆助(玄洋社員、衆議院議員)の助力を得て東京帝国大学に進学し、外務省へ。
日清戦争前から、上海、漢口で情報収集にあたる宗方小太郎らを支援していた。
日露戦争では、小村全権の一員として交渉のテーブルについていた。
小村より一足先に帰国し、伊藤博文を説いて横浜での小村帰国を無事に迎えるという演出を画策。
桂太郎の東清鉄道譲渡の秘密契約を、小村とともに破棄させた。
後に、同郷福岡出身の廣田弘毅を外務省に引き込む。中華公使の時、急死する。
その納骨式では頭山満も参列し、一握の砂を山座の墓所に注いだ。頭山とは盟友の杉浦重剛の弟子でもあった山座。
小村寿太郎を陰から支えた山座の急死は惜しまれる。
山座の墓は、福岡藩主黒田家の墓所の真向かいにある。
山崎拓 |
太田誠一 |
県会議員、市会議員は多数
有名人:
声楽家 三宅春恵
学者 林 周二 (旧制福岡高校では同学年)
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