2018年5月15日火曜日

薩摩藩と近衛家

現在の大河ドラマ「西郷どん」でも、幕末時代の薩摩藩と近衛家の深い関係が描かれているが、戦国時代に直接薩摩まで下ってきていた人物がいたことを、今日のラジオで初めて知った。

その人物は、 近衛 信尹(このえ のぶただ)である。


天正5年(1577年)に元服
天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。
次の関白の位をめぐり、五摂家の二条昭実と争いになっていたが、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉が関白に就任してしまい、さらに次の座を秀次に奪われる。
秀吉が関白職を巡る争いに介入し、近衛前久猶子となって関白宣下を受けられたうらには、本能寺の変で、近衛家屋敷を明智軍が利用した事実を不問にするという裏取引があったという。

このため、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、文禄元年(1592年)12月に信尹自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。

後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めた。

信尹は薩摩国坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。

地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。
鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられる。
配流中の世話役であった御仮屋守(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている。

現在、近衛屋敷跡は公園となり、近衛文麿に依る碑も建立、手植えの藤は季節に花を咲かせる。


遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年いたい旨書状に残すほどであった。
慶長元年(1596年)9月勅許が下り京都に戻る。

慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し撤退を余儀なくされる。

そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。
また島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。

信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、近衛家は関ヶ原で敗れた島津家徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。

慶長6年(1601年)、信尹は左大臣に復職。慶長10年(1605年)7月23日にはやっと念願の関白となる。

翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。

慶長19年より病に罹っていたが、11月25日1614年12月25日)に薨去、享年50。 山城国京都東福寺に葬られる。

信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇第4皇子二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、自身の娘(母は家女房)を娶らせた。近衛家は天皇家の血筋となった。

0 件のコメント:

コメントを投稿