2018年5月2日水曜日

川上音二郎 承天寺に眠る

生い立ち


1864年(文久4年)、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区対馬小路)に生まれた。
福岡藩黒田氏郷士及び豪商・川上専蔵の子。
論語孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に進学するが、継母と折り合いが悪く、1878年(明治11年)、家を飛び出し大阪へ出て、さらに出奔し東京へ行った。
(明治38年12月、鶴乃子本舗石村萬盛堂は、川上音二郎が所有していた中対馬小路の実家の一角を借りて誕生した。)
福岡中学の前身の場所

増上寺の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る福澤諭吉と出会い、慶應義塾学僕(雑用を手伝いながら勉強する生徒)・書生として慶應義塾に学び、一時は警視庁巡査となる。
その後反政府の自由党壮士となった。1883年(明治16年)には立憲帝政党員となり、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成にも参加。

オッペケペー節

1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行った。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。

やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 

川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。東京でもオッペケペー節が大流行した。
川上は1893年、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。

川上音二郎

1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。 伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきた。
音二郎・貞奴


戦争劇・新派劇

1894年、日清戦争が始まると、いち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」を仕立てた。続いて川上は朝鮮半島に渡って戦地の状況を実見し、それをもとに「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。これらの戦争劇は大評判となった。
同年末には、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」を浅草座で上演。この作品は新派劇の代表的な演目になった。

海外興行・翻訳劇

1899年(明治32年)、渡米して現地で興行を行う。このとき、妻・貞奴が舞台に立つことになった。シカゴボストンサンフランシスコなどで甚五郎や道成寺などを披露し、東洋の珍しい演劇として話題を集めた。
ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の『サッフォー』を日本版に翻案した芝居も演じた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた
1900年(明治33年)には、日本通で知られるロンドンアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介され、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。
欧米巡業中、1902年(明治35年)11月1日に日本の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章((外国人に贈られる最高章)を授章した。
1903年以降、『オセロ』『ハムレット』『ヴェニスの商人』など翻訳劇を積極的に上演し、メロドラマ中心になった他の新派劇と一線を画そうとした。
1908年(明治41年)興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場・帝国座を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。
1911年(明治44年)、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去]。享年48。

音二郎の遺跡
「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。
福岡市営地下鉄「中洲川端駅」音二郎像


音二郎は1月1日に生まれ、11月11日に亡くなり、そして、今年は111回忌。(2021)


 近代演劇の川上音二郎ですが、自由民権運動の旗手でもあるのです。宮崎滔天が浪曲師となって、無学文盲の庶民に自由民権を鼓舞した如く、音二郎はオッペケぺー!で、議会制民主主義の底の浅さを揶揄しました。明治時代のパロディは、そのまま、現代にも十二分に通用します。
 代表作『博多っ子純情』で知られる漫画家の長谷川法世さんが、体調不良の中、挨拶をされました。しかし、声が切れ切れで、切なくなるほどでした。


マスコミ各社が多数きていましたが、博多市民センター(読売新聞)が、来月、法世さんにインタビューするとのことでした。
 法要は承天寺(福岡市博多区)の仏殿で行われたのですが、仏殿の写真を撮影したら、各所に大きなオーブが映っていました。音二郎を慕った役者さんたちなのか、はたまた、貞奴さんが「派手に、音二郎さんを供養しなくちゃ!」と呼んできた見えない方々なのか?。







神奈川県茅ケ崎市にある川上音二郎の別荘跡は、現在、茅ケ崎市美術館になっている。

          萬松園(川上音二郎邸跡)

別荘跡
東京の泉岳寺にも墓碑があり、銅像もあったが、芸人風情が・・・ということで、銅像は谷中に移された。
海外公演での招魂碑は、泉岳寺にでようやく、立て直した。(不要なら、神奈川県茅ケ崎市が引き取ると言っていた。)

0 件のコメント:

コメントを投稿