達磨寺(だるまじ)は、奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は片岡山。本尊は、千手観音・達磨禅師・聖徳太子。
王寺町の達磨寺は、我国最初の勅撰歴史書「日本書記」に推古天皇21年(西暦613年)のくだりに聖徳太子伝記中最も著名な「片岡山飢人御慰問」が登載されている。それは、その年の12月1日太子が片岡山のほとりに住む道人を訪ねるべく進んで居られるところ道端に飢えと寒さに息絶え絶えの人が座って居り何故か乗って居られた黒駒がピタッと脚を止め進もうとはしない。太子は、ふと名状しがたい感じに打たれ思わず馬より降り、飢人に近寄られ名を尋ねられたが、最早や力も尽きて居ったのか、答えがなかった。太子は、哀れに思われと食物の飲物を与えられ、寒さに震えている飢人に着て居られた紫の御袍をお脱ぎになり手づから着せかけられ”安らかにお休みなさい”と仰せになり心を残し乍らその場を立ち去られ、翌日飢人の様子を視されられたところ、その飢人は既に死んで居り太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬られ後、人々は達磨墳と呼んだと言うのが、王寺達磨寺の起源である。
飢人が達磨であったとされたのは、仏教には輪廻転生思想あり、我国第一の仏教興隆の功績を残された太子は、法華経の尊信者であり、法華経を正依とする中国天台宗の祖思師禅師は、同時代の高僧であり太子の前身と信じられるようになったのは、中国の衡州衡山道場にて達磨は、思師禅師に”東海に生まれ更りて正法を宣揚すべし”勧めなされる物語より生じたものであり、一足先に日本に渡り太子誕生まで奥州待島(松島)待ったと云う伝承あり。この事は、天台も禅も其の源は一つであり、片岡山辺りで両者が対面する事は、衡山道場で既に約束されて居ったとされ、強い興味が感ぜられる・元より史実の点からは当然否定されるべきであろうが、当時の日中両国仏教との真摯な宗教的願望であり、比叡山に大乗戒壇を開いた天台宗最澄の大乗仏教一乗思想に合理性を与え、鑑真和上来日の動機にもつながると云われる飢人伝説により創建された王寺の達磨寺の存在は、日本仏教史上貴重なる存在である。
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