2019年3月26日火曜日

香椎浜(香椎潟)の昔と今


現在の香椎浜の地図
昔と今の比較地図




JR香椎駅商店街のPR館で昔の香椎の写真や古地図の展示会があった。
昔といっても戦前であれば、ある程度知っているつもりだったが、さらに大昔(200年前)の風景画などがならんでいた。

香椎宮周辺の俯瞰図
上の写真は香椎宮周辺の俯瞰図で江戸時代のスケッチ図を復元したものだ。
日本書記(巻八)によると、九年の春二月に52歳の仲哀天皇が橿日宮(香椎宮)で崩御された。これは三韓を征伐せよという神の教えに従わずにいたためと思われた。
神功皇后は、小山田邑に斎宮を造り、出兵を決心されたという。わが古賀市の小山田斎宮はこの時建立されたものらしい。郷土史にはあまりくわしく記載されていない新発見である。また皇石神社にも神功皇后ゆかりの大石がある。
この年には天皇を葬りまつることを得ずとあり、香椎廟ができたのは少しあとになる。
立花山城と香椎浜
この図は戦国時代の立花城古図として有名で、周辺の里山や街道をしるした地図。
立花山は、仲哀天皇が三韓征伐の神の教えが下ったとき、「高き岳にのぼりて遥かに海原を望むるに、ひろくして国も見えず」といわれた時の高き岳であった。
二神山ともいわれ、九州物部氏の信仰した山でもある。三韓とは馬韓、弁韓、辰韓で朝鮮半島の南部である。百済、新羅、高句麗と間違えている本が結構ある。
戦国時代には、大友氏と大内氏が制覇をあらそった山城で有名だ。
図の右下に、原上や唐原の村があり、香椎イオンのある香椎浜につながっている。
香椎浜と名島の間の香椎潟
この図は香椎潟(香椎~名島間)の明治時代の図で鉄道は海の中の鉄橋を走っている。
戦後の発展で失われた自然の風景をいろいろ思いだして懐かしい記憶が甦えった。
中学時代に箱崎から西戸崎までの往復10里行軍で歩いた唐津街道、香椎潟で葦の葉を切り出した夏の作業、戦後出来た米軍キャンプでのアルバイト作業などなど。
香椎浜の御嶋崎と濱雄社
この図は、香椎浜の御嶋先と濱雄社周辺の俯瞰図で、香椎イオンの東入り口周辺であり、鳥居だけが残っている。
日本書記に出てくる香椎潟は、神功皇后が橿日浦(香椎浦)で「髪を海に入れて洗うとき、髪が流れで二つにわかれたら三韓を征伐しよう」といわれ、占いの通りになったので出兵されたという伝説の場所でもある。
松本清張の小説「点と線」で舞台となった御島岬(長崎鼻)も、いまは陸地の住宅地のなかになっている。

清張桜


大伴旅人が、「いざ児ども香椎の潟に白砂の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」と詠んだ叙情は、いま皆無である。
御島神社

今も浜に3ケの亀石



現在も祈りの場所



点と線の映画で有名になった西鉄香椎駅も今は近代化している。
昔の西鉄香椎駅


今の西鉄香椎駅

香椎潟の埋立て経過は複雑で、正確な記録は不明だが、昭和4年頃の埋立て計画図が残っているのを見つけた。
昭和4年の埋立て予定図

前松原(舞松原)の「水流」は、八田交番付近が土井、八田の水分峠になっていて、北に流れる小川は衣川とよばれてたが、現在は城浜団地横の正体不明の『暗渠』となって海につながっている。

昭和初期の地図
鹿児島本線の「本」の文字あたりに水路が、暗きょうになった。














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