2023年3月22日水曜日

筑紫の語源いろいろ

 

 伊耶那岐神・伊耶那美神が生んだ大八島国の第四の島、筑紫島は、身一つに面が四つあり、その四つのうち、筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国を建日別という。
諸説
 筑紫国は、筑前国と筑後国に当たり、七世紀末頃に二国に分けられた。
筑紫」は九州の総名にもなっているが、律令制下、九州を総管し軍事や外交をつかさどる大宰府が筑前国に置かれるなど、筑紫国は九州の筆頭となる要衝の地であった。
 
「筑紫」という国名の由来は、『釈日本紀』が引く『筑後国風土記』(逸文)に、「尽(つくし)」という語に因んだ起源説の由来が後述のよう三説挙げられているが、定かな説はない。
一般的には陸地の尽きるところの説が有力である。
 
「白日」は、明るい太陽の意とする説がある。筑紫島の国々の名前には、みな「日」がついていることにも注意される。「しらぬひ 筑紫の国に」(万5・794)のように「筑紫」にかかる枕詞「白縫」(語義未詳)に関係があるのではないかという見方もあるが、定かではない。
 
「別」という称号は古代の人名に見られ、岐美二神の生んだ島やその国の名前にワケ・ヒコ・ヒメとつくのは擬人的な命名であると論じられている。国生みの伝承の中で、島や国に擬人名を持つ『古事記』の伝承は天武天皇朝以後の新しい形態であると論じられているが、「別」のつく神名の成立については、歴史上の「別」の性格とからめて論じられており、大化改新前後までに形成されていた皇子分封の思想、すなわち、『古事記』『日本書紀』で景行天皇が諸皇子に諸国郡を封じたのが「別」の起こりとしているように、「別」が天皇や皇子の国土統治を象徴するようになっていたことに基づく命名で、七世紀以後にできたものとする説がある。

一方、大化以前の実在の姓や尊称という見方を否定し、ワクという分治の意味の動詞から発して、天皇統治の発展段階にふさわしい称号として採用、ないし創作されて伝承上の神名や人名に対して附加されたものと見なし、『古事記』の編集理念に基づいた称号体系の一環と考える説もある。
陸地の尽きるところの説もある。

「つくし」の名前の由来とは?

①筑後の国と筑前の国は、もとは1つの国でありました。この2つの国の間の山は、険しく狭い坂があり、馬の鞍(くら)をすり減らしてしまうくらい大変であった事から、「くらつくしの坂」と呼ばれていたそうです。そして、そこから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

 

②昔、この辺りに気性の激しい神様がいらっしゃって、通る人々の半数が命を落としていた為、その神様は「命つくしの神」と言われました。そこで、筑紫君(つくしのかみ)がその神様をまつり祈って以来、安心して通れるようになった事から「つくしの神」と言われるようになりました。そして、それから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

 

③ここで死んだ人をおさめる棺桶をたくさん作る為、この辺りの山の木を切り尽くした事から、「山の木つくし」と言われるようになりました。そして、そこから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

「筑紫」発祥の地と伝わる筑紫宮(筑紫野市:Wikipediaから)

 オホド王と磐井の乱にかかわって、筑紫の話柄が続きます。本節では「筑紫」の名の由来を取り上げます。

 『書紀』は全30巻のうち「筑紫」の文字が登場しないのは4巻しかありません。初出は巻第一「神代上」の国生みで、本文と「一書」第1・2・4で4番目に「筑紫洲」の文字が出てきます。また『万葉集』巻第20に「都久志能佐伎」(ツクシの崎)とあって、7世紀には「ツクシ」の音もあった可能性が認められます。

 なぜ「ツクシ」というのか――については、『書紀』も『古事記』も由来を説明していません。俗説というか民間に伝えられている由来を探ると、おおむね次の5つです。

 ①筑後と筑前の境にあった馬の鞍を潰すほどの急峻な坂「くらつくしの坂」から。

 ②通りがかる人を見境なく殺した気性の激しい神様「命つくしの神」から。

 ③多勢の人が亡くなって棺桶を作ったため「山の木がつきた」から。

 ④西の陸地が尽きるところだから。

 ⑤太宰府に向かう石畳の道を「築石の道」と呼んだ。「築石」が「ツクシ」になった。

 ①~④は「尽きる」「尽くす」由来説、⑤は音韻転訛説です。いずれも後付けであることは否めません。

 漢字表記の「都久志」は倭音に漢字1文字を当てた万葉仮名ですから脇に置くとして、『書紀』「古事記』は「筑紫」、太宰府出土の木簡には「竺志」、656年に成立した『隋書』東夷伝は「竹斯」とあります。

 「チクシ」が意味するのは九州島、九州北半(現在の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県)、福岡県、太宰府がある旧筑紫郡のいずれとも特定できません。一郷名に過ぎなかったヤマトの音が奈良県、日本全体を意味するようになったのと同じことがチクシにも起こったのか、その逆なのか、どちらともはっきりしません。

 ただ広義の筑紫は「豊、筑、火、熊」の4國で成っていたとされています。時代をさかのぼると、筑紫は「筑」と表記されていたか、チクと呼ばれていたのでしょうか。ちなみに「熊」は「熊襲」のことですが、原意は「クマ地方の襲(ソ)族」のこと。

 「魏志倭人伝」にはチク、ツクに類する國名(地名)は記載されていません。するとチク、ツクの音が生まれたのは4世紀以後、つまり邪馬壹国以後ということになってきます。意図的に付けられた地名です。

 そこで気になるのは、「紫」の文字です。なぜ「斯」や「志」ではなかったのでしょうか。

 紫は華夏で最も高貴な色とされ、それは「天の中心で天帝の住む所」された星群「紫微垣」に由来します。「紫微垣」の中央で輝く北極星を「太極」と呼び、皇帝が政治を司る建物を「大極殿」、臣下が紫の衣を着用して出入りすることを禁じたので皇帝が起居する宮殿を「紫禁城」と呼ぶようになりました。

 以下は倭人が漢字を使い熟すようになった時期とかかわるのですが、筑紫を「紫を築く」と解釈するなら、ミニ中華ワールドを指向した倭讃(推定在位382~425)の王城南遷と無縁ではないかもしれません。委奴國王や邪馬壹国王が華夏皇帝から下賜された「金印紫綬」の記憶が「筑紫」の名に引き継がれているように思えます。


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