「キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。
キエフ公国を形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つです。
東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウ(キエフ)の始まりだとされています。
その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移し、キエフ公国を建国しました。
キエフ国がヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ国(キエフ・ルーシ)は商業を重視して富を得ていたと考えられます。
例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。
その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。モスクワも公国の範囲にありましたが、北部の森林区域で、交易ルートから離れていました。
最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは諸原因で衰退過程に入っていたようです。
これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。
こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。
プーチン大統領が、ウクライナは歴史的にロシアと同じ国だと言っているのは、この時代のことを指しているのでしょう。しかし当時は、ロシアという国はありませんでした。
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