2023年9月24日日曜日

第5代ローマ皇帝ネロは暴君?

 第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られている。

母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれた。

ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった、との説が近年有力になっています。

ネロの経歴は、紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。

哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。セネカや妻も死に追いやった。64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。

この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。

最近の歴史研究者では、ネロを歴史の「被害者」だと考える人が増えてきた。

「彼は皇帝として若すぎた。家族の中にも支援者を持ち得なかった。当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係がない。もし彼が実際より30年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたであろう。」

ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。しかし、その多くは創作の可能性が高いという。出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。

現代のフェイクニュースと同じで、極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていた。ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。

これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。


黄金宮殿は円形天井からの光を巧みにとりいれた宮殿

その名誉回復のため、ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)の再公開がすすめられている。これまでも一部が公開されていたが、長期間にわたって閉鎖して発掘と修復を重ね、範囲を大幅に拡大して今年6月、再公開された。

同時に、特別展「ラファエロと黄金宮殿 グロテスク様式の創案」が内部で開幕した。

「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。

英国でも、ネロの業績の再評価を試みが、ロンドンの大英博物館で、特別展「ネロ 虚像に覆われた男」が、10月24日まで開かれている。

NHKでも今月「古代ローマスペシャル 皇帝ネロの黄金宮殿が放送され、青柳先生がネロの再評価を詳しく説明された。



質疑応答の例:

ネロはどんな皇帝だったのですか。

「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。

「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えませんが。

「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

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