「どうする家康」でも取り上げられた方広寺の鐘銘問題の実態。
当時は、鐘銘は天海などの五山閥の僧が書くのが当たり前だった。
奈良の大仏の鐘そのままに文面を用意すれば良いものを、当時の学閥、五山閥にも宗閥にも無関係な人間である、文英清韓という学者(加藤清正の家臣の息子)を片桐且元が登用し、文面を用意しているのはおかしいという指摘があった。
奈良の大仏の鐘銘の写しを片桐且元に見せて「無案内の田舎集に、いらざる事を書き付けている」のを問題にしている。つまり、当時の最高学閥を、何故無視したのかと指摘している。
ちなみに、片桐が清韓を選んだ理由は分かっていない。
当時は相手の名前を呼び捨てにしたり、書き捨てるのは許されぬ無礼とされていた。
例えば、片桐且元は、片桐市正殿と書かなければならない。
この指摘に対して、天海、崇伝、羅山に呼び出された清韓との話し合いで、
①については天海達は清韓自身を不問とした。
(当人が決めた訳じゃないんで)
②についての清韓の回答
●諱、字については中国、韓国流の学系統にある自分と和風漢語の武家との解釈違い(日本と中国で姓名の形が違うので和製英語みたいな事が起きた)
→羅山等も、これに関しては解釈違いと問題にはせず。
●「国家安康は家康の名前を用いた。名前を隠し題に入れて、縁語にするのは良くあること。名前を分けて縁語にするのは別に問題ないだろうに。過去に事例があるから言ってやろうか。」
→勝手に使っても問題なかろうと開き直り、堂々言われて、流石に羅山等はちょっとキレかかる。
●「君臣豊楽、子孫殷昌。」これは豊臣を隠し題にした。豊臣の繁栄を願って問題なかろう。
徳川の繁栄を願う必要はなかろう。
本人にその気はなくても、徳川家を君とはしないと公言した様なもの。
家康も相当不快だった様で、後々清韓を迫害している。
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