【渦巻く思惑、西軍の真相】
ドラマでは、茶々から軍資金支援を得て、毛利輝元ら西国の諸将を調略し、家康に対抗する「西軍」を組織した石田三成。
総大将は毛利輝元ですが、関ヶ原の戦いとは、「家康VS三成」という構図が解り易いですね。
関ヶ原の戦いで西軍は敗れていますから、その西軍との関係がある書状などの多くは破棄されているので、それも当然のことですが、、、
ドラマでは、三成は家康とは共にやって行けぬと拒絶反応を示していますが、実際のところはそこまで険悪ではなかったようです。
実際に家康は、隠居後の三成に対して気を使ったのか、兄・正澄を秀頼の奏者番として近侍させ、嫡男・重家も秀頼の下へ出仕させます。
三成もまた、ドラマでも描かれた「家康暗殺計画」の発覚に際して、大坂へ家康警護の為に兵を送ったとも言われています。
これらは1599年頃の話であるので、こうした構図からは三成が家康を打倒一辺倒であったとは思えません
とはいえ、三成は反家康の諸将を糾合し西軍を組織するわけなんですが
三成はどこまでこの企みの中心にいたのか?
今回ドラマでも描かれた「会津征伐」。
五大老の1人である上杉景勝。彼もまた家康と同様に先祖代々の土地から引き離され(佐渡、越後・出羽の一部は残る)、
見ず知らずの会津の地へ移され、周囲は最上や伊達、そして徳川に囲まれる土地柄。
上杉景勝にしてみれば、領国経営に専念にしていたのことが、周囲の大名たちからは、「戦支度をしている」だの讒言されてしまいます
家康はこれを問題視して大坂へ来て申し開きするように命じるのですが、、、
上杉景勝の宿老・直江兼続は三成と予てから昵懇の間柄であり、このような家康の仕打ちに対する不満から三成と企み、
西国と奥州で家康を挟み撃ちにする策を立てとも言いますが、これは今日では否定的な意見も多くなっています。
上杉景勝が、直江兼続に書状なんて書かせるよりも、自ら大坂で申し開きすれば良かっただけのことですが
彼は家康が既に豊臣政権を掌握していたことを、肌で感じていなかったのかもしれませんね。
かくして「会津征伐」が決まると、家康は西国の大名たちを引き連れて、会津へ向かいます。
そのおよそ一か月後、大坂にいた奉行衆(徳善院玄以、増田長盛、名束正家)が、家康不在の大坂城に毛利輝元を迎え、大坂城西之丸(家康の大坂城における居所)にて政務を執るように要請します。
さらに奉行衆は、「内府違いの条々」を諸大名に発します。これはこれまでの家康が秀吉との生前の約束を違えた悪行を告発するものでした。
この書状の起草にあたり談合したのが、毛利輝元、宇喜多秀家、徳善院玄以、増田長盛、長束正家、小西行長、大谷吉継、石田三成、島津義弘の9名であったとされます。
関ヶ原の戦いの僅か二ヶ月程前のことでした。
三成が主体となって、西軍が組織されたように考えられていましたが、三成はあくまでも決起メンバーの1人でしかなかったと思われます。
ドラマでは佐和山で隠居する三成を訪ねた大谷刑部に「この方が性に合っている」と、隠居生活を楽しんでる様子も描写されました。
大谷刑部はその三成の姿を家康に、
「治部は、わだかまりは捨てたようで、実に穏やかにすごしておりました」と報告しました。
ドラマでも、実際の歴史においても、三成は隠居後にことさら家康と事を構えるようなことを考えていたようには見えませんでした。
家康は嫡男・石田重家を将来、奉行職に引き上げるとこを内々に約束したと伝わります。(重家の「家」は家康から付けて貰ったとも *諸説あり)
先の「家康暗殺計画」における三成と兄・正澄の行動は、家康との関係が険悪どころか、良好に近かったことを示唆します。
家康を無き者にして得をするのは誰か?
宇喜多秀家はこの直前まで、家中での騒動を抱えていました。
秀家の最側近の「えこひいき」を巡り、家中が騒乱状態となります。秀家自らでこれを収拾できず、結果、家康に調停を仰ぎ内乱の危機は去りました。しかしこれは秀家の指導力や政治力を疑問符を投げかけることになり、
彼の豊臣政権内での影響力が低下します。
豊臣一門衆である秀家は、豊臣政権下のNo2にあるべきなのに、、、
家康の前に屈服するしかありません。
毛利輝元には、長らく実子がおらず従弟の宮松丸(穂井田元清、毛利元就の四男の息子)を養子としました。毛利秀元です。
この秀元の毛利家での立場と、輝元、秀元、吉川広家との間で領地を巡り問題が持ち上がります。
この調停を行っていた三成が失脚すると、家康がこれに介入し調停します。
(秀元に父・穂井田元清旧領が、輝元は小早川隆景の遺領がそれぞれ与えられ、広家は現状維持となります)
三者は納得しますが、収まらないのは輝元です。
西国の雄・毛利の当主であるメンツは潰され、家康に起請文まで書かされる始末、、、
彼もまた家康の前に屈服したのです。
なんか三成なんかよりもず~っと家康にいなくなって欲しい人いますね
ドラマでは、会津征伐へ向かう大谷刑部が再び三成の元を訪れると
「家康をとりのぞけば殿下の思い通りの政(まつり)ができる、今度こそ殿下の思い通りにできる」
三成に翻意するように大谷刑部は説得しますが、彼が見せたのは恐らく大坂から送られた大量の軍資金でした。
こんな大金を用意できるのは、大坂城の茶々ぐらいでしょうね
三成の知らない所で謀議が成立し、軍資金まで送り込まれてしまう、
もう引き返すことのできない所まで来てしまったのです、、、
このドラマで描かれる三成って案外、実像に近いように思えて来ました。
関ヶ原の戦いの発端は、彼の知らない所で始まっていたのです。
秀吉の生前には多くの大名の取次を行っており、そうした大名たちと友好関係にもありました。
その顔の広さと、豊臣恩顧大名の代表的人物であることは、輝元や秀家には仲間として巻き込むには好都合です。
彼らの何倍も人望もあります
家康の下ではあまり浮かばれない連中にしてみれば、三成が復活してくれた方が望ましいのです。
それ故、彼は立ち上がるしかなかったのか、、、
果たして、ドラマでは三成の運命はこの先どう描かれるのか、
そして全てが終わった後に、三成は何を語るのでしょうか。
【関ヶ原直前の西軍】
ドラマで三成は、「大きな蜘蛛の巣をもう1つ張った」と豪語します。
東軍を山間の関ヶ原に誘いだして、一網打尽にする。三成は自信満々でした。
流石、秀吉が手塩にかけて育て、経験豊富な歴戦の勇将たちです。
東軍は、さらに三成の本拠地・佐和山城への攻撃を仕掛けるような行動を見せたことから、三成、宇喜多秀家、小西行長らは大垣城を放棄して、関ヶ原へ移動を開始します。
彦が守った伏見城を落とすのに手間取ったこと、
西軍側と見られていた近江大津城の京極高次が東軍側へと旗色を鮮明にしたこと、そして東軍先鋒の快進撃。
これらが三成の目論見を崩して行くのです。
三成が関ヶ原へ布陣する以前に、小早川秀秋、毛利勢らは既に関ヶ原を囲む山々に布陣を完了していました。
そこへ大垣城からの軍勢などが加わり、以下の諸将が関ヶ原に布陣します。
宇喜多秀家 17,000
小早川秀秋 15,000 *
長宗我部盛親 6,000
小西行長 6,000
石田三成 6,000
大谷吉継 1,500
島津義弘・豊久 1,500
名束正家 1,500
小川祐忠 2,100 *
脇坂安治 1,000 *
赤座直保・朽木元綱ら700~800 *
これ以外に、豊臣家馬廻衆、などの諸隊。
さらに毛利勢
毛利秀元 16,000 吉川広家 3,000 * 安国寺恵瓊 1,800
(*東軍に内応した勢力)
関ヶ原の本隊とは別に、浅井畷の戦い(丹羽長重ら3,000 前田勢との戦っています)、大津城包囲戦(毛利元康、立花宗茂、小早川秀包ら15,000 京極高次が籠る大津城の包囲戦です)にも兵を割くことになります。
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