安川電機に就職して、30年間勤務したが、その間私を一番かわいがってくれたのは、社長、会長であった安川寛氏であった。
その自叙伝「道草人生」を読みながら思い出したことをまとめてみた。
棟方志功と対談面の安川寛(中央)その奥が私 |
経歴・人物
旧制小倉中学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1934年に東京帝国大学大学院を修了。東京大学で講師、航空研究所嘱託として勤務.
1936年に安川電機製作所取締役に就任。1944年に社長に就任し、1972年に会長を経て、1985年に名誉顧問に就任。
北九州商工会議所会頭、福岡大学理事長、エフエム九州社長、日本電機工業会会長、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任。
1964年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。
彼は、安川清三郎の長男として生まれ、33歳までは東大の機械工学科の講師として、研究生活をされていた。
父親の安川清三郎氏が、心臓麻痺で急逝されたため、急遽安川電機の社長につかれた経緯があり、研究所の活動には一番理解のある幹部であった。
私が研究所に配属された当時の研究所長近藤晴男氏は、同じ東大卒であったが、学位はまだとられていなかった。
私が昭和36年に学位を取得したときは、社内で2番目の学位取得者になり、その後近藤所長も取得された。
寛社長は七高時代の野球部で活躍され、全国制覇をされたほどのスポーツマンであった。
社会人となってからはゴルフで腕をあげられ、門司ゴルフ場でハンディー8の腕前であった。戦争前と敗戦後最初のクラブチャンピオンであり、理事長も続けられていた。
その影響で、安川電機の幹部には、ゴルフ愛好者が多く、社内コンペも盛んであった。
私が課長職になった時に、いきなりゴルフ場の会員権の取得をすすめられ、社員の練習グループにさそわれて、プロのレッスンをうける羽目になった。
社内コンペで優勝すると、つぎの月のコンペの幹事をするルールになっていて、2年後くらいにその役になった。そのときのラウンドは寛社長と同じ組でラウンドすることになっていて、いろいろ指導してもらったり、社会勉強になる話などをしてもらった。
私のゴルフのレベルは、ハンディ20位であったが、社友会のゴルフコンペで、たまたま私がホールインワンした。この会では最初でで最後のことだったので、話題になった。
西方浄土筑紫嶋: ゴルフのOB(アウトバウンズ)杭 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
会社のカレンダーには、毎年、棟方志功さんの版画が使用されている。私が技術関係の管理部長のときに、志功さんが九州に来社され、北九州地区の名所をスケッチして廻られた。
その時会社のクラブに滞在され、歓迎の夕食会を寛社長が開催され、わたしも幹事役として同席し、志功夫妻と懇談することができた。志功さんの子供さんが、その日テレビに子役としてっ出演されたので、みんなで一緒にテレビをみたりした。
西方浄土筑紫嶋: 棟方志功の美術館と思い出 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
大宰府に、中西博多織の工場があった。中西金作という発明家が、博多織の自動化を大正時代から研究し、図形を電気式に紋紙にかえて、写真の肖像画を博多織でおることを実現された。戦前からその作品を安川家では愛用されていたが、太平洋戦争によりその需要がとぎれて、設備も老朽化していた。
寛さんは、これを復活させたいと思われ、私費を投じて再建するから、その技術指導を私に命じられた。
研究所長だった私は、真空管式だった古い装置を、トランジスタ式の最新装置に改造するよう担当技術者を派遣して、実現した。関連会社で販売普及を行ったが、中西氏の高齢化で事業としては、短期間で終了した。
西方浄土筑紫嶋: 中西金作:経歴と博多電気織 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
寛さんは、ブラジルの領事を務められ、九州での領事館が会社の応接室にできていた。私は九州工業大学の教授になったので、ブラジルからの留学生が来た時に、会長の寛氏のところにに案内し、地域での活動の支援をして戴いたり、国内での就職あっせんなども支援してもらった。
0 件のコメント:
コメントを投稿