玄界義塾で山崎製パンに企業説明を拝聴したが、創業者の話はなかったので、検索してみた。
飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年11月7日 - 1989年12月4日)は、日本の実業家。山崎製パンの創業者である。
東京府北多摩郡三鷹村に生まれる。16歳で父親を亡くし、旧制中学を中退して新宿中村屋へ勤める。1931年に中村屋を辞して、現在の東京学芸大学にあたる東京府豊島師範学校二部に入学する。後に、中村屋の店主相馬愛蔵の影響でクリスチャンになる。
師範学校卒業後、東京市内の小学校教員を経て中等教員検定試験に合格し、東京府立航空工業学校体操教師になる。1941年に陸軍から召集されて高射砲兵になる。陸軍少尉に任官。国府台の陸軍部隊に所属した。
復員後軍隊時代に過ごした千葉県市川市中国分の練兵場跡へ入植し、東台農事実行組合を設立する。1947年のキティ台風時に、被災製紙工場の濡れ藁と小麦30俵以上を交換入手し、製パン業を興すきっかけとする。
1948年には市川市京成国府台駅前に山崎製パン所を開業した。
飯島は東台農事実行組合でもパン製造を営んでいたため、食糧管理制度下で製パン業が厳しく統制される中で「飯島」の名前では認可が下りなかったため、未亡人となっていた妹の嫁ぎ先の姓である「山崎」で認可を得て商号を山崎とした。
当時パンを入手するには地方食糧営団指定の配給パン工場へ行き配給切符で購入するか、家庭に配給された小麦粉を委託加工所へ持参して加工賃を払い、数日後にパンを受け取る方法があり、飯島は後者の事業から身を興している。
まずはコッペパンの製造を手掛け、次いでロシアパンや菓子パン(ジャム・あん・クリームパンなど[2])に進出している。1949年に和菓子、1950年に洋菓子の製造を開始した。
WIKIより: 以下省略
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