2024年7月3日水曜日

孝謙天皇、重祚して称徳天皇と道鏡

 孝謙天皇

父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」



皇太子

聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。

中国でも則天武后の女帝前例があることを方便として批判を退け、その後の修行で皇太子の能力を身に着け、元正上皇の御前で五節舞を披露している。舞のスキルを習得して皇太子としての自信を持てた。




孝謙天皇としての治世

父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮職を改組した紫微中台の長官で、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が強く、孝謙天皇時代は受けの政治であった。

756年5月2日に父の聖武上皇が崩御し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この更迭劇には、孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている。


太上天皇時代

758年8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。

仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。

760年1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの、淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた。

760年7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、761年には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵用するようになった。道鏡は12歳も年上であった。

762年5月23日6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。

6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した。

ただし、この宣言がどこまで実効性があったかは研究者の間でも議論があり、実効性が発揮できなかったためにその後も混乱が続いたとする見方もある。

不和の原因には道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどがあげられている。

また、天皇の軍事指揮権の象徴であるが光明皇太后の崩御後、直接淳仁天皇に引き渡されたことは、淳仁天皇に皇統の正嫡意識を持たせ、反対に孝謙上皇の不満を強めて皇統嫡流を争い始めたとする見方もある。

764年頃には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。

藤原仲麻呂の乱

764年9月11日、藤原仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。

仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。

仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には、左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。さらに9月22日には、仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。

重祚:称徳天皇としての治世




淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。

765年飢饉和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であったが、称徳天皇時代は攻めの政治を行った。

同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始している。

一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった。

またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。

766年10月には海龍王寺仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。

一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された。




称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。

一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。

奴隷の開放、親孝行の推奨、格差の低減、女子官僚の増加など新しい行政もおこなった。

一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくし、ささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた例もある。

769年大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。

これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は、清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。

崩御と後継

行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。

道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。

称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。




一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという。

河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。

上野正裕は称徳天皇から吉備由利を介して吉備真備に後継者に関する遺詔が示された可能性があり、それが文室大市もしくは文室浄三であったものの、他の廷臣がこれを拒絶して白壁王を擁立したとする説もある。

なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も772年に再開されている。

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