2015年11月14日土曜日

安川電機100周年記念モニュメント



安川電機新本社の1階エントランスホールには、100周年記念モニュメントが設置されました。

高さ4.8mのクリスタルガラスの彫像で、屋外からも見ることができます。「創造の源泉」を象徴する存在としてギリシャ神話で知的活動を司る女神「ミューズ」をモチーフとした「PixCell-Double Muse」がお客様をお出迎えします。


PixCell-Double Muse

ギリシャ神話で有名なゼウスには愛人として、記憶の女神ムネモシュネがいました。

ゼウスは女神ムネモシュネと九夜の間一緒に過ごし、 1年後女神ムネモシュネはオリュムポス山の頂上付近で9人の同じ気性の娘ミューズ(もしくはムーサイ)を産みました。

この9人の娘こそが、今回の主役の9柱の女神です。彼女達は後にミューズと呼ばれ、歌を司り、記憶を助ける芸術の女神達となりました。

動詞museは瞑想する意味、music,
musician,musicalなどはこれから派生したと言われています。
九姉妹の姿
(9姉妹の名前と各守護分担内容は,クリオは歴史,エウテルペは抒情詩,タリアは喜劇,メルポメネは悲劇,テルプシコレは舞踊,エラトは恋愛詩,ポリュムニアは賛歌,ウラニアは天文学,カリオペは叙事詩の守護者とされますが,この分担については諸説があり,一定していません。)


彼女達の生まれたオリュムポスの高嶺の舞踏場を館として、 ミューズはカリスやエロスの分身ヒメロスと住んだと言われております。  

9人のミューズは不死の神々を称える讃歌を歌いながらオリュムポスに赴き、 9人のミューズがオリュムポスの頂に着くと雲に包まれて、 彼女たちが歌う美しい歌声は夜しか聞こえなくなったと言われています。

その歌声は、エントランスホールでも聞こえませんでしたが、近くにある未来館で、各種ののロボット展示やゲームで、にぎやかに聞くことができました。
未来館


わが家には、イタリアのヴェネツィアで買ったガラスの人形があったが、地震でこわれてしまった。

2015年11月13日金曜日

安川敬一郎物語(神田紅)

各地の偉人伝を講談にしている神田紅さんが、北九州市で「安川敬一郎物語」を演じている。
10月末に戸畑会館で演じたたのが最初で、昨日1(1月12日)は安川電機本社の社友会の集まりで第2回目を演じた。
安川電機は創業100周年記念の年で、創業者安川第五郎の父で、明治炭鉱で財をなした安川敬一郎の名を広めるには丁度よい講談である。
社友である私もこの名前は当然よく知っているし、フェイスブックで戸畑会場には孫の山下妙子さんがこられたこともわかっていた。しかし炭鉱経営以外の社会貢献については、それほど詳しくないので、丁度よい企画であった。
いまNHKの朝ドラの主人公と敬一郎が同じ年のうまれで、ともに筑豊の炭鉱経営に関係するところから話がはじまった。
最初に経営した東谷炭鉱
親友平岡浩太郎が政治の道で、敬一郎は財界の道で北九州の発展のため協力して、鉄道の敷設や洞海湾の浚渫や官営製鉄所の誘致などを推進していく。
平岡と安川

石炭積み出し港としての洞海湾の浚渫は2.5mであったが、鉄鉱石積載の大型船のためには6mの浚渫が必要で、大変苦労したという詳しい話まででた。
洞海湾浚渫図
そのほか紡績業や製鉄用窯業などへの事業展開と明治工業専門学校(現在の九州工業大学)の設立などの功績を紹介する講談で、社友も大拍手で終了した。


2015年11月2日月曜日

水廻りの汚れ

トイレや風呂場など水廻りの器具は水垢などのよごれがつきやすい。
高齢者はそれに鈍感になり、また掃除も億劫になって放置している。
先日義弟に叱られて、ホームセンターにいき、汚れ落としの洗剤や
サンドペーパーなどを買って来た。
WCの手洗い廻りと風呂場の鏡周辺の汚れを、2日かかりで清掃した。
ほぼ綺麗に取れた後は、やはり気持ちがいい。

2015年10月30日金曜日

東行庵の総括

高杉晋作は、死んで赤間関(下関)の鎮守となると誓っていたが、下関街の大半は長府領・清末領であり、適当な埋葬場所がなかった。
萩本藩でもっとも下関に近い場所が吉田で、奇兵隊の本陣が置かれたところだった。その清水山の麓に山縣有朋が新婚生活を営んだ無鄰庵という小さな家があった。
これが晋作の愛人うのに譲られ東行庵となる。うのは剃髪して梅処と号し、明治42年に亡くなるまで晋作の菩提を弔い続けた。
山縣や伊藤ら晋作ゆかりの人々の寄付集めで、晋作、参謀福田、愛人うのの墓や建物、銅像、顕彰碑などが建立されて、境内が整備されてきた。東行庵の石碑の文字は毛利公の書という。









3代庵主のころには、奇兵隊や諸隊の兵士の墓130基ほどをあつめた顕彰墓地ができ、さらに反乱で処刑された兵士の墓も追加された。
この場所の高台には大きな聖観音石像が立っている。
 「おもしろき こともなき世を おもしろく
    ふきかえしたる 東行春風」

高杉晋作の東行庵に山県有朋の銅像がある。何故だろうと思ってしらべた。
この清水山麓には、もともと奇兵隊陸軍監山縣狂介が新婚生活を営んでいた小さな家があった場所で、それを晋作の愛人うのに譲って東行庵となったそうだ。

山県の銅像



東行庵建立寄付者のなかでも、毛利公55円についで、50円組4人のトップに山県が名前を書き、あと井上、山田、伊藤とならんでいる。
また、東行庵にある晋作の顕彰碑は大きいが、墓は予想していたより小柄な墓であった。
明治42年ごろにできたものだが、一緒に建てられる奇兵隊参謀の福田公明(侠平)の墓が先にできた。完成を待ち望んでいた梅処尼は「旦那のがまだ来ない」と言いながら、ついに墓石をみずに67歳で亡くなったという。彼女の墓も近くに建てられている。
宿理 英彦、新田 昌彰、他3人

2015年10月28日水曜日

大村益次郎の大村神社と墓と銅像

大村益次郎(村田蔵六)は周防国吉敷郡鋳銭司村の村田家で生まれた。
JR山陽本線四辻駅から歩いて数分の場所に益次郎生誕地の碑があり、整備された記念広場になっている。
石碑の書は山縣有朋である。
さらに国道2号線を東に行くと、長沢池という灌漑用の大きな池がある。
その奥の小高い山の中腹に益次郎と妻琴子の墓が並んでいる。
そのそばには業績を刻んだ神道碑があり、愛弟子の山田顕義の文字である。
その麓には地元の崇敬者たちによりたてられた大村神社がある。戦時中に現在の大きな社に建替えられたという。
花神の小説やドラマをかいた司馬遼太郎の記念塔もある。
社から鳥居をみると、広い長沢池が見下ろせる。
大村の考えた「将軍の術」とは、すなはち、勝つための作戦であった。
上野戦争では彰義隊を上野山に封じ込め、三方より殲滅、とどめは佐賀藩のアームストロング砲を使用し戦意を挫いた。
但し、袋のネズミにせず、根岸方面だけ逃道をあけておいた。
また事前に江戸の大火の過去分析を実施し、天候や風向きなども調査し、戦に勝つだけでなく民衆の支持にも配慮した。
すぐれた作戦とは一人のすぐれた頭脳から生まれるものである。


地元で、大村益次郎の新しい銅像除幕式が、2020年7月23日、生誕地の山口市鋳銭司であり、地域住民らが完成を祝った。

 地元の鋳銭司自治会などでつくる大村益次郎没後150年事業実行委員会(会長・岡本敏自治会長)が大村の偉業を後世に伝えようと企画。移転新築した市鋳銭司地域交流センターの敷地内に建立した。全国の約1100人から1200万円余りの寄付金が寄せられたという。

 除幕式で岡本会長は「近代国家成立に大きく貢献した大村益次郎を地域の誇りとして、地域への自信が生まれ、勉学に励み未来に挑戦する多くの若者が育っていくことを願っている」と述べた。

 大村は幕末に長州軍を率い、「日本近代建軍の父」として知られる兵学者。教育者としても活躍し、幕府の洋学所で教壇に立ち、私塾を開いて若者を育てた。

 銅像は高さ1メートル55センチ。東京の靖国神社にも銅像があり、「軍神」のイメージが強い大村だが、教育者としての側面に焦点を当て、地球儀のそばで講義する姿を表現している。
 

2015年10月24日土曜日

戦艦「伊勢」の運命

私が唯一軍艦に乗った経験があるのは、昭和9年頃、戦艦「伊勢」が博多湾に寄港していたときで、小学生が乗船して見学を許された時でした。
その後の「伊勢」の運命は、いままであまり詳しく知らなかったのですが、今回その建造から敗戦までの物語の詳細をしらべると、懐かしさと悲しみの物語でした。

戦艦伊勢の写真
戦艦伊勢の模型





「伊勢」は、大正2(1913)年の建艦計画で、最初は大型戦艦4隻が計画されました。

一番艦「扶桑」、二番艦「山城」、三番艦「伊勢」、四番艦「日向」

 ところが建艦は、一番艦の「扶桑」の建艦が行われ出したところで、残る3隻が、無期延期になってしまいます。国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。

日露戦争が終わって8年目、前年には朝鮮半島も併合しています。「もう戦争は終わったのだ」
「だいたい海軍はカネを遣いすぎる」
「ハコモノ行政はけしからん。もっと民生にカネをつかうべきだ」
「国民の生活が第一だー!、年金を出せ〜!、政府の財政赤字をなんとかしろ〜!」

要するに現在と同じ国民の世論です。海軍は、やむなく少ない予算で、なんとかして強力な戦艦を作ろうとしました。

けれどその結果、設計に無理が出てしまったのです。新造艦の「扶桑」は、英国の新鋭ドレットノート戦艦の戦力には到底及ばないツマラナイ船になってしまったし、しかも4艦建造の予定が1艦だけになってしまったのです。


日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めたのです。

日本が条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効し、変わって米英が同盟国となるという結果が招かれました。
こうして世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
日英(5+5=10):米(5)  から、  日(3):英米(5+5=10)
という、パワーバランスになったのです。
日本は、著しく不利な状況に置かれることになりました。
軍事バランスが変化したのです。日本はこれにより、東洋の「弱国」になってしまったのです。

要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「ドレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、という説もあります。


ようやく大正2(1913)年には「扶桑」、大正3年には「山城」が建造開始となりました。

結果、できあがった一番艦の「扶桑」、二番艦の「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというありさまでした。

要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。

これでは戦艦の体をなしません。しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にありません。


そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正6(1917)年、「日向」は大正7(1918)年にそれぞれ就役させることになりました。

そして大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、徹底的に船体の改良をされていきます。

さらに、昭和9(1934)年、緊迫する世界情勢の中で、姉妹艦は大改装を施されました。


まず第一に、艦の主砲の最大仰角が45度に引き上げられました。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

もともとは、最大仰角25度で設計された船です。
それを一気に45度に引き上げたのです。
しかも砲弾の命中率さえも向上させたのです。

これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸びました。なんと、33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。


次に装甲が格段に強化されました。これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしないものとなりました。

さらに新型タービンエンジンを搭載させました。船速は、25.3ノットまで引き上げられました。それでもまだ世界の標準艦には追い付かないものです。


そして新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させました。さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線を装備させました。

海軍は、なんとかして世界の艦隊レベルに追いついて行こうと努力したのです。けれど、それでもやはり船速が遅いのです。

連合艦隊の機動部隊に参加するなら、最低30ノットは出なければ、他の艦についてけないのです。


大東亜戦争がはじまったとき、ですから「伊勢」と「日向」は、練習艦として配備されました。実戦では使い物にならないとされたのです。

そんな姉妹艦が実戦投入されたのは、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦からです。「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練にいそしみました。ところが訓練中に重大事件が起こってしまうのです。

昭和17(1942)年5月5日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしたのです。

砲塔部が吹っ飛びました。乗員54名が一瞬にして亡くなりました。

やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部をそっくり外して、その穴を鉄板で塞ぎ、上に25ミリ四連装機銃を突貫工事で装備させました。


つまり主砲がない戦艦として「日向」はミッドウェー作戦に参加したのです。本来なら、対艦主砲の代わりに機関銃を設置した艦など使い物になりません。

「伊勢」と「日向」がこのとき参戦させてもらえたのは、ただ一点、試作品とはいえ、レーダーが装備されていた、という理由です。


ところが船速の遅い船です。

艦隊のはるか後方を航行しているときに、せっかくのレーダーも、まったく活かされないまま、ミッドウエー海戦では日本海軍が大敗してしまうのです。そして日本は、大切な空母をも失ってしまいました。

失われた空母力を補うのは喫緊の課題です。さまざまな商船や、水上機母艦などが、空母への改造を検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。


そこで結局、建造中の大和型の大型戦艦の3番艦である「信濃」を空母に改造すること、および事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいるだけの「日向」、「日向」と同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されたのです。

巨大戦艦は大和・武蔵の2隻と思われているが、信濃という巨大空母もあった。

写真の説明はありません。


しかし「伊勢」も「日向」も、もともと戦艦として設計された艦です。
だから艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。

これを壊して空母に改造するとなると、完成までに1年半はかかってしまう。ならば艦の後部だけを空母にしようと出来上がったのが次の絵にある「航空戦艦」という形です。


航空戦艦伊勢の図


     航空戦艦伊勢の写真



ただ、問題があります。「伊勢」も「日向」も、艦の中央に巨大な艦橋があるのです。

つまり空母として航空機の発着陸に必要な十分な滑走路を確保できないのです。そこでどうしたかというと、まず離陸は、カタパルト(射出機)で対応することにしました。

カタパルトを使えば、離陸に長い滑走路は必要ありません。
このためカタパルトは、新型のものを備え付けました。

これは、30秒間隔で飛行機を射出できる、当時としては最先端の技術品です。これを二基備え付けました。

これによって、わずか5分15秒で全機発艦できるようになりました。これまた世界最速です。
では飛行機の着艦はどうするのか。

甲板には、着艦に必要なだけの滑走路はありません。つまり、着艦できません。そこで「一緒に航海する空母に着陸させればよろしい」ということになりました。


といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがありません。

どうするかというと「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈になったのです。
残酷な話ではあるけれど、それは現実の選択でした。

そして「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、それぞれ大改造を施されました。

さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。

対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されたのです。それだけではありません。新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。

各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、超強力防空戦艦としての機能も身に着けたのです。

こうしてようやく完成した姉妹は、昭和19(1944)年10月に戦線に復帰しました。

そして同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊に、「航空戦艦」として参加することになりました。

ところが艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまったのです。つまり、載せる飛行機がなくなってしまったのです。


「伊勢」と「日向」の姉妹は、フィリピン沖で、艦載機を載せないまま、米軍のハルゼーが繰り出してきた527機もの飛行機の大編隊と戦うことになりました。

この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を受けました。
しかし、この戦いで、敢然と猛火蓋をきったのが、「伊勢」と「日向」でした。両艦あわせてほとんど損傷を受けないまま、100機近い敵機を撃墜してしまったのです。

さらに「伊勢」に至っては群がる敵機との戦闘のさ中に、自艦のエンジンを停止させ、被弾し沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業さえも行っています。

エンジンを停止すれば艦は停まります。停まっている艦には、爆撃機の爆弾が当たるのです。ですから本来は敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙なのです。

ところが「伊勢」の持つ強力な対空砲火は、敵の航空隊をまるで寄せ付けない。しかも戦艦設計の強力な装甲は、敵弾を跳ね返してしまう。

だから戦闘のさなかに堂々と艦を停止させ、対空砲火で群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員100名余を、助けることができたのです。

これは海戦史に残る、ものすごい出来事です。

レイテ沖海戦敗戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失ってしまいます。日本の戦況はますます厳しさの一途をたどります。

そのレイテ沖海戦で生き残った「伊勢」と「日向」は、武装した輸送艦として、主に物資の運搬に用いられました。

航空戦艦を輸送船に使うなどもったいない話ですけれど、当時の状況下では頑丈な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実だったのです。

こうして「伊勢」と「日向」は、昭和19年11月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運んできました。

途中で、何度も米潜水艦に狙われたのですが、そこはもともとが戦艦です。なんなく敵潜水艦を撃退し、無事に、内地にたどり着きました。

そしてこのとき「伊勢」と「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の航空燃料でした。

沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った最後の燃料です。

けれど最後の航空燃料を持ち帰った姉妹は、自分が海上走行するための燃料がなくなりました。

このため二艦は、呉の港の「海上砲台」として停泊したまま使用されることになりました。

終戦間近の昭和20年7月28日、呉の海軍兵廟は、米軍機の猛攻撃を受けました。

このとき「伊勢」と「日向」は、停泊したままで、まさに鬼神の如き戦いをしました。途中で大破しました。船底は、港の海底に着底してしまいました。それでも「伊勢」と「日向」の対空砲は火を吐き続けました。
そしてついに対空砲火が底をつこうとしたとき、やむなく「伊勢」と「日向」は、群がる敵機に向かって主砲をドドンと放ちました。

戦艦の主砲の威力は強大です。たいへんな爆風を伴います。

この主砲の発射の風圧によって、そのとき米軍機が、まるで空中のハエが突然死んで落下するように、パラパラと、まるで雨のように海面に落ちたそうです。

そしてこのときの主砲の発射が、日本戦艦が放つ最後の主砲発射となりました。

できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。

そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされませんでした。

その2隻が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の砲撃を行って、沈黙しました。

小学生で乗船し、巨大な主砲や、水兵さんの食事用の大窯なども見たときは、無敵艦隊の戦艦とばかり思っていましたが、ちょうど来年の大河ドラマ「真田丸」の真田信繁ような運命をたどった物語でした。





















2015年10月19日月曜日

信長が名付けた城名〔改訂)

織田信長は美濃の稲葉城を攻め落として、これを岐阜城と改名した。
岐阜城
その由来はつぎのように言われている。
岐阜の岐は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事により、また岐阜の阜は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるよう願って命名したという。
いかにも天下布武をめざした信長らしい話だ。
その後近江の目賀田山に安土城を築いたが、この名称の由来には2説ある。
安土城
 
内部構造


故郷の愛知は「あゆち」と呼ばれていたので、これを安土とおきかえたという説と、「平安楽土」の言葉から安土の2文字を選んだという説である。
どちらもすでに天下布武を達成したという心境から選んだ言葉のようである。
この心のゆるみが本能寺の変を誘発したのかもしれない。