大友宗麟が豊後海部郡津久見館で病したのは天正十五年(1587)5月23日。享年58歳。
西暦(年齢)
1530年(1歳)豊後国府内に生まれる。(幼名、塩法師丸)
1550年(21歳)お家騒動「二階崩れ」が起こる。これにより家督を相続。
1554年(25歳)キリスト教の布教を許可。
1555年(26歳)毛利元就と敵対をはじめる。
1559年(30歳)幕府から豊前・筑前の守護職を任命される。
1562年(33歳)毛利元就に大敗し、居城を臼杵城に移す。出家し宗麟と名乗る。
ポルトガルとの貿易で、軍備の強化。
1576年(47歳)隠居し、家督を嫡男・大友義統に譲るが、実権は維持する。
1578年(49歳)洗礼を受け正式にキリスト教になる。
耳川の戦いで、島津軍に大敗。
1586年(57歳)島津軍に臼杵城を攻められるが、国崩しを使い勝利する。
1587年(58歳)病死。
豊後大友氏二十一代当主・大友宗麟は享禄三年正月三日、大友義鑑の嫡男として豊後府内城に生まれました。
しかし父義鑑は異母弟の塩市丸に家督を嗣がせようとしたことから内紛が起き、宗麟を支持する家臣に襲われて重傷を負い、塩市丸は殺害されるという事件が起きます(『大友二階崩れ』)。
この内紛を鎮圧して家督を相続した宗麟でしたが、やがて周防大内氏の滅亡後に急速に台頭してきた毛利元就と北部九州や立花山で争いました。
天文20年(1551)、年来の宿敵、大内家の当主義隆が陶隆房の謀反で横死したのである(大寧寺の変)。大内の弱体化を受け、大友は北九州へ進出する。
長らく一進一退の戦いが続きますが、毛利氏は元亀二年(1571)六月に元就が没すると九州から撤退、これにより宗麟は九州六カ国に及ぶ大版図を得ることになります。
このころフランシスコ・ザビエルが豊後を訪れ、府内で宗麟に謁見し、キリスト教布教の許可を得た。この邂逅が、後の宗麟の運命を決定づけた可能性がある。
大友が引き換えに得た南蛮貿易の利は、中国・東南アジアとの積極的な交易を含め、その後の軍備強化や経済面の繁栄を支えた。
宗麟は天正元年(1573)、名目上は家督を子の義統に譲って後見役を務めますが、依然として実権は握っていました。
同五年正月、島津氏に追われた日向の伊東義祐・義益が宗麟を頼って落ち延びてくると、キリスト教に改宗していた宗麟は、九州南部にキリスト教の平和国家を拡大しようと考え、両者に島津を討ち伊東氏の旧領回復を約束します。
仏教徒の老臣たちの多くは反対しますが宗麟は聞かず、十月に大軍を率いて臼杵を出陣、日向へと入りました。十一月十二日、宗麟は耳川の戦いで島津氏に大敗を喫し、やがて義統との対立や田原親貫の反乱などもあり、往年の勢いはすっかり失われていきました。
同十四年三月、島津氏の北上に窮した宗麟は上坂して豊臣秀吉に謁し、助けを求めます。
やがて秀吉は島津氏征伐へと動きますが、同年十二月にはついに島津氏の軍勢が豊後丹生島城(大分県臼杵市)を囲みました。
籠城した宗麟は「国崩し」と呼ばれる大砲を放って島津勢を撃退しますが、これが戦国大名としての宗麟が見せた最後の意地でした。
六月から島津軍の侵攻が本格化すると、家臣が次々と裏切り、大友家は滅亡の危機を迎える。
しかし、忠義を貫いた家臣たちもいた。有名な高橋紹運の岩屋城玉砕戦、立花宗茂による立花城防衛戦、吉岡妙林尼による鶴崎城防衛戦などは豊薩戦争時のエピソードである。
翌年には領国の大半が島津氏に奪われますが、秀吉の20万を超える大軍の前に島津義久は降伏、九州は平定されました。
翌年五月三日、秀吉は義統に対して豊後を安堵、宗麟には日向一国を与えますが宗麟はこれを辞退、それから一ヶ月も経たない天正十五年(1587)5月23日、津久見で没しました。
享年58。
ポルトガルでの、宗麟評価
ザビエルが、キリスト教普及の効果を強調するために、豊後の宗麟を九州全体の王と称して紹介し、対面場面の油絵などを多くのこしています。
豊後は九州全体のイメージ |
宗麟は西洋人の王の姿 |
宗麟が亡くなった頃、ポルトガルもスペインとの争いに敗れて、勢力が衰えたという。
筑前にたどる豊後大友の足跡をテーマ。
以前私がある企業の研修センターが国東半島にできた披露式のとき、大分県の平松知事と同席して聞いた話では、大分県の大河ドラマをつくるため、大友宗麟の小説を遠藤周作さんに依頼した。
出来上がった小説「沈黙」が、宗教色が強すぎたため、大河にはならず、正月3日間の特別番組になったそうだ。
代わりに大分市には、南蛮BUNGO交流館ができた。
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