2013年5月25日土曜日

溥儀と広田弘毅

昨日ラストエンペラの映画をみた。
溥儀が僅か3歳で皇帝となった当時、広田弘毅は外交官としてはじめての赴任先が北京で、1907~1909年の2年あまり滞在した。


溥儀と面会できたか否かは不明であるが、恐らく紫禁城に幽閉状態の末期の清国皇帝だったから、面会は無かったであろう。
その後広田は国内勤務、アメリカ、オランダ公使、ソ連大使などを勤め、直接中国に滞在したことはなかったが日中友好派であった。
ただしソ連大使としては、満州国が日本の傀儡政府でなく、独立した新政府ということを欧米各国に認めさせることに貢献した。
この成果が評価されて、帰国後外務大臣として起用されるようになった。
しかし皇帝に担ぎ出された溥儀にとっては、独立国の実態は不満なものであっただろう。
1935年3月に溥儀が初めて日本訪問した時には広田は外相として何処かで顔を合わせている筈だだが、詳しい記録はないようだ。


筥崎宮社家末裔である葦津珍彦翁の半生記は私家版で作成部数は限られている。

 この本によると、広田弘毅が総理大臣になることを葦津耕次郎翁が強く反対していたという。
「政治家ではない、役人(外務省)であるとして。」
官僚、軍部に利用されるだけと言っていたそうだ。
身近で広田を見ていたからこそ、総理大臣就任反対を言えたのだろう。
就任した後はなるだけ早く辞めろと言っていたそう。

立派な銅像もなにか寂しそうである。
 

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