蒲池氏は筑後の名族で、かつて天文年間に龍造寺氏が浪人となって筑後へ赴いた際、鎮漣の父鑑盛によって保護されたという経緯があり、いわば大恩のある家でした。その縁で、隆信の娘が鎮漣に嫁いでおり、隆信にとって鎮漣は息子のような存在でした。
ところが鎮漣は次第に隆信の強引なやり方に反発を強めて島津氏に接近したため、隆信は鎮漣の謀殺を企てました。
隆信が政家に家督を譲り隠居するにあたって猿楽を興行するので、詩歌の道に堪能な鎮漣にぜひ出席して祝って貰いたいと告げました。
鎮漣は初めは疑って返答をしませんでしたが、使者は執拗に食い下がり、鎮漣の母の取りなしもあり、また大村純忠の先例もあったことからついに鎮漣は佐嘉行きを決意、屈強の兵数十人に護衛させ総勢百三十名余りで佐嘉城へと向かいました。
五月二十八日に佐賀城に着くと、政家は鎮漣を懇ろにもてなし、その日は何も起こらず夜は本行寺に宿を取ります。
しかし翌日未明に寺を発ち、隆信の待つ須古へ向かう道中で異変は起きました。突然、四方から一斉に攻めかかられたのです。近くの家に入った鎮漣は驚く老女に自害するための行水の用意を頼むと、やがて主従三人で差し違えて果て、百三十余名の従者も一人残らず討ち死にしました。
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