小早川隆景のあと小早川秀秋が名島城主となるが、朝鮮戦争での失政のため備前国に改易させられて、あとの筑前国を石田三成が管理することになる。
代理人による管理と思っていたが、石田三成は実際に1598.(慶長3年)6.16.に名島城に到着している。
しかしその2ヶ月後の8.18.に秀吉が亡くなり、急遽大阪に帰ってしまう。
半年後の1599.2.5.に再び小早川秀秋が名島城にもどってくる。
短期間ながら石田三成がいた名島城では、どんな改革が計画されていたのか、何も記録が残っていないのは残念だ。
その後関ヶ原の戦で敗軍の将となった石田三成。
その人生を主とした歴史番組を今週みた。
敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
追記:
福岡市史の中世資料編「豊臣期」と、同『島井家資料』の二ヶ所では、年次の推定が異なっていたが、その理由について市史編纂纂室の調査結果ではつぎのように報告されている。
石田三成の九州下向は
① 九州平定時 ② 文禄の役 ③ 秀吉の臨終前後
①九州平定時は博多が復興の途上の時期で長い期間滞在。 (除外)
②文禄の役。天正二十年三月下旬には名護屋にいるため、
来る(五月)二十七日・二十八日にここもと下向との記述と齟 齬する。
③慶長三年は秀吉存命中と没後に一度づつ九州へ下向している。
史料は五月であるため、秀吉存命中の下向となるが、三成と九州に同行した是斎重鑑の日記に、三成が五月二十九日に京を出発して筑前に下ったとの記述がある。
①~③の考察により、史料は天正二十年ではなく慶長三年に比定される。
『資料編中世1』に天正十五年とあるのは誤植であり、天正十四年が正しい。『資料編中世2』に附属している正誤表に記入がある。
有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
追記:
福岡市史の中世資料編「豊臣期」と、同『島井家資料』の二ヶ所では、年次の推定が異なっていたが、その理由について市史編纂纂室の調査結果ではつぎのように報告されている。
石田三成の九州下向は
① 九州平定時 ② 文禄の役 ③ 秀吉の臨終前後
①九州平定時は博多が復興の途上の時期で長い期間滞在。 (除外)
②文禄の役。天正二十年三月下旬には名護屋にいるため、
来る(五月)二十七日・二十八日にここもと下向との記述と齟 齬する。
③慶長三年は秀吉存命中と没後に一度づつ九州へ下向している。
史料は五月であるため、秀吉存命中の下向となるが、三成と九州に同行した是斎重鑑の日記に、三成が五月二十九日に京を出発して筑前に下ったとの記述がある。
①~③の考察により、史料は天正二十年ではなく慶長三年に比定される。
『資料編中世1』に天正十五年とあるのは誤植であり、天正十四年が正しい。『資料編中世2』に附属している正誤表に記入がある。
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