吉弘氏の居城 |
宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だったが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどる。
耳川の戦い |
当時、斜陽の大友家にあって左右の柱石と目されたのは立花道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。
ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求め、紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾、ここに宗茂は立花道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けることになった。
宗茂は幼時から父紹運に似て体格が優れ、眼光鋭く腕力も強く、すでに非凡の容貌であった。
宗茂は同十一年十一月、秋月氏との嘉麻・穂波の戦いで初陣を迎えると、敵の剛将・堀江備前を仕留める活躍をした(首を挙げたのは萩尾大学)。以後宗茂は宗像氏貞や原田信種ら周辺の反大友勢力と戦う。
同十二年三月、肥前沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼした島津氏は勢力を強めて北上を開始するが、不運にも十三年九月には養父道雪が筑後北野の陣中に病没、大友家の命運はいよいよ紹運・宗茂父子の双肩にかかる。
同十四年七月、島津氏の大軍は紹運の守る岩屋城(福岡県太宰府市)に押し寄せ、紹運は奮戦空しく玉砕。
宗茂は立花城(同新宮町)にいたが、降伏か玉砕かで揺れ動く家中をまとめて一致団結させ、計略も用いて豊臣秀吉の島津氏征討軍の到着まで見事に持ちこたえた。
立花山の絵図 |
柳川城絵図 |
宗茂は後に秀吉から「東の忠勝、西の宗茂」(忠勝は徳川四天王の一人・本多平八郎)と讃えられ、その武勇は全国に知れ渡った。
2度の朝鮮の役でも活躍するが、しかし彼の人生はこの先秀吉の死後大きな波乱が待ち受けることになる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。
西軍の敗戦により、柳川城を開城して浪人となる。その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。その後、清正の元を離れ、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。
慶長9年(1604年)家康から江戸城に召し出される。宗茂の実力をよく知っていた徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・徳川秀忠の御伽衆(御話衆)に列せられる。当時の御伽衆の顔ぶれは
・立花宗茂:九州関連
・九鬼守隆(九鬼嘉隆の息子):水軍関連
・脇坂安元(”貂の皮”の脇坂安治の息子):四国関連
・平野長泰(賤ヶ岳の七本槍の一人):豊臣家の事柄について
・佐久間安政(佐久間盛政の弟):北陸、奥州関連
・細川興元(細川藤孝の次男):畿内関連
さらに陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となる。
大坂の陣のとき、大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという。
そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予言的中や秀忠軍の進退を指導した。また豊臣秀頼が出陣しないことも予言して的中させた。 戦いの末尾は毛利勝永の軍勢を駆逐している。
大坂の陣のとき、大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという。
そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予言的中や秀忠軍の進退を指導した。また豊臣秀頼が出陣しないことも予言して的中させた。 戦いの末尾は毛利勝永の軍勢を駆逐している。
また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参などに随伴している。
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