2014年8月21日木曜日

広島の土砂崩れ


今朝の新聞で、被害のあった地域の地図をみると、毛利一族の熊谷氏がいた三入高松城(みいりたかまつじょう)広島県広島市安佐北区可部にある山城のあたりが崩れたらしい。
(詳細な地図では、高松山の少し南側の阿武山、権現山らしい。)

熊谷氏は源平合戦で有名な熊谷直実の子孫である。
「承久の乱」の戦功により安芸に入った当時の熊谷氏は当初三入荘北端に伊勢ヶ坪城を構え、居城とした。しかし戦乱の世になるにつれ、平坦な岡にある伊勢ヶ坪城の防備に不安を感じ、当主の熊谷直経は急峻な高松山に居城を構えた。これが三入高松城の始まりである。
戦国時代当初は熊谷氏は安芸武田氏に臣従していたが、熊谷信直の代になり領土問題などの争議が起こったため武田氏から離反した。
天文2年(1533年)信直は毛利元就と和議を結び、信直の娘が吉川元春の嫁となって以後、毛利氏の重臣となっていった。同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。 
毛利軍の進撃経路

1591年に広島城が完成すると、熊谷氏も城下に移住したが、慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」の後に熊谷氏が毛利氏の防長移封に従い安芸国を離れるまで、三入高松城は熊谷氏の居城であった。城の北麓に熊谷高直が築いたとされる熊谷氏居館の「土居屋敷」跡がある。
1615年の一国一城令で破却され、多くの遺構が消滅した。
城山は、紡錘形をした、急峻で高さのある山である。高松山の標高は339メートル。 頂上からは、南方に安芸香川氏の八木城、玖村氏の恵下山城、はるかに安芸武田氏の佐東銀山城を望む事ができる。城跡には井戸跡や馬場跡、石垣がわずかに残っており、本丸の土塁跡などが確認できる。
前方には川が外堀として流れており、山自体もかなり急峻な典型的な山城である。城跡は昭和26年(1951年)4月6日、広島県の史跡に指定された。
現在の高松山では、毎年5月末の土日に山腹に大文字を点火、献灯する行事が行われている。これは、山頂にある愛宕神社の春祭りの一端として行われている。
この可部の地は京都のように山と川に囲まれた盆地のようであり、この可部の大文字焼きは京都の「大文字」(五山の送り火)を真似たものと言われている。

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