2014年8月10日日曜日

長崎原爆の計測器(第三の原爆?)と国内事情(改訂版)

原爆投下から75年ということで記念行事が各地で行われている。
この日私は大学1年生。早期卒業で戦場にでかけるため夏休みなしで講義をうけていた。
B29が2機小倉上空に飛来して、あと福岡方向に向っているというラジオ放送を聴きながらの授業であった。
教授は「B29には高射砲の弾が届かないので、天体と同じだ」とジョークをいいながら講義を続けた。
次の日広島に継いで長崎にも、新型特殊爆弾がまた投下されたことが大きく新聞にのった。落下傘付きという説明がついていた。




技術者の間では原子爆弾ではないか?いやそんなに早く完成しないだろう?とうわさされていた。
次の日、憲兵隊が長崎で投下された不発弾?を大学に持ち込み、入江講師のもとで分解調査することになり、私もその作業に加わった。





長崎原爆資料館に展示されている現物
 






原爆の温度や圧力を計測するためのラジオゾンデで、パラシュートで投下されたものだった。
直径30cm、長さ1m位のジュラルミンの筒の中におさまっていて、ミニ真空管や積層乾電池やビニール絶縁など、当時日本にまだな無い新技術がつめこまれていた。これではアメリカに勝てるわけがないと我々は痛感した。


くわしいことは次のブログに記載している。
http://gfujino1.exblog.jp/9290692

その後今年の2月に、私も調査の当事者として新聞に紹介された。


広島原爆の制御信号の詳細がネットに掲載されていた。
まず 科学観測機Great Artiste 号が3個の観測器(ラジオゾンデ)を投下し南に向け左に急旋回 。
つづく原爆搭載機Enola Gay号 が広島原爆 Little Boy を投下し北に向け急旋回。
原爆の爆発を確実にするための4つの装置 :
第1:ねじ式8個の時計式時限装置。 (爆発まで44秒)
第2:気圧式着火装置。気圧で作動するスイッチは、高度2100mの気圧で電気回路をつなぐ。(爆発まで29秒)
第3:地上からの距離を測定して爆発する装置。
原爆効果を最大にするため、レーダー装置「アーチーズ」へ点火信号が送られて、放出されて地上で跳ね返ったマイクロ波を、八木アンテナがキャッチし始める。 秒速347m、時速1200kmを超える速度で落下。地上500mで点火システムの最後の回路がつながり、コルダイト爆薬が燃焼、ウラン235の砲弾が発射され、ウランにぶち当たり核分裂が起きる。実際にこの一連の作動でリトルボーイを爆発させたのはレーダー信管。爆弾の前部に取り付けられたレーダー装置で地上からの距離(高度)を正確に測定して、爆発させた。
第4:着発信管装置。
1,2、3の装置が全て作動に失敗して、そのまま地上に落ちた場合に爆発させるため、着発信管(爆弾が着地すると作動)も装備されていた。
不発弾などありえない厳重な制御装置だった。
1. AN 219 接地式の起爆装置
2. 対地測距用アンテナ
3. 電源
4. 起爆用コンデンサー
5. 爆弾の前後の楕円部分を固定しているヒンジ
6. プルトニウムと爆縮レンズ
7. 対地測距用レーダーと起爆用タイマーなどの制御装置
8. 起爆制御装置
9. 尾翼(20インチのアルミニウム製)


原爆を9000mの上空から目標地点の60m以内に投下し、43秒後に爆発する間に、B29は13Km以上離れなければならない。このため米軍は日本全国の49の都市で模擬爆弾パンプキンの投下実験を行って、投下地点の写真を撮っていたという。
パンプキン爆弾は内容物によって2種類が存在し1つはTNT火薬を主成分とした高性能爆薬を充填したタイプ、もう1つはセメントや石膏を用いたコンクリート混合物が充填されたタイプであった。いずれのパンプキン内容物もファットマン原爆の内容物球体コア(プルトニウムと、それを核分裂させるシステム。爆縮レンズ)とほぼ同一の形状・比重・質量配分になるよう調整され、爆弾内部のコア配置位置も全く同じとされた。これにより、原爆投下行動に対する有効な事前データが採取できたといわれる。
50回近くも行うことで、日本がB29が戦闘機も伴はずに飛来して9000mから被害の少ない爆弾を一つだけ落とすことに慣れてくれるを期待していた。


原爆投下の予定地には、一般的な爆撃を禁止し、原爆の効果を確認することにしていた。

宇部市では7月29日にパンプキン爆弾を投下したあと8月1日に全都市への大規模な焼夷弾の投下が行われた。

日本のポツダム宣言受諾が遅ければ、3発目の原爆が既によていされていた。

大本営参謀作戦課の朝枝繁晴中佐である。
ポツダム宣言を受諾後に、特命をうけて満州にわたるとき、不発弾の情報を耳にして、ソ連のガバリョフ大将らにこの話をして、米ソを対立構造に置くことで日本の復興ができると考えたという。

一部では竹田宮がその主役とされたが、これは誤報で、皇帝溥儀を無事日本に連れ帰るのが目的の渡満でした。

この状況をいち早く報じたのは、ドイツのシュピーゲル誌で、ソ連と関東軍の通訳にあたっていた人物の手紙 から情報が洩れてようだ。


左の資料は、軍の通訳が関東軍の出した資料をソ連参謀本部と党本部に送ったもので、左端には手書きで原爆にあらずラジオゾンデなりの書き込みがある。
情報が錯綜していた証拠である。
ラジオゾンデは3個投下され、1個は九大に持ち込まれたが、別の1個が東京まで空輸されたらしい。あと1個も何処かに保管されていたけど、すべて進駐軍が回収した。
米軍は3個のゾンデで広範囲の温度、圧力を計測していたのだ。
そうとは知らずに、これを国際交渉に利用しようとした日本側の無知はあわれである。

「おそらくは
今も宇宙を走りゆく
二つの光
 水ヲ下サイ」
岩井謙一さんの詩集「光弾」のなかの一節。
広島と長崎に炸裂した原子爆弾の光は、8.3分後に太陽を通過し、6.8時間後に冥王星を通過し、太陽系をはなれて4.3年後に恒星ケンタウルスアルファにであう。
この光は人間のつくった悲劇をあまねく宇宙に知らせる伝令のように、いまも75光年のかなたに達し、10万年後にわれわれの銀河をはなれ、16万年後に大マゼラン星雲を通過し230万年後にアンドロメダ銀河に・・・、やがていつの日かブラックホールに吸い込まれていくのか?
8月になると、この詩が甦ってくる。

広島に投下された原爆は濃縮ウラン型、長崎にはプルトニウム型と違うタイプの原爆が使用された。
当時、日本中に展開された空爆攻撃も、広島、長崎にはおこなわれなかった。何故か?
事前に建物が破壊され、死傷者が多く出ていては原爆の効果が測定できなくなるから。
ココまではテレビや新聞などでも報道されれいるので割と知られている。
驚愕すべき真実はココから
広島に投下された濃縮ウラン型の原爆は、ロックフェラ-とメロン財団が開発したもの。
長崎に投下されたプルトニウム型の原爆は、モルガンとデュポンが開発したロスチャイルド系のものであった。
つまりユダヤ人企業間の競争原理によって、広島・長崎で大量殺戮実験が行われた事を知る日本人は少ない。
1945年7月17日から始まった、表向き戦後の処理と日本統治を話し合うというポツダム会談(ユダヤ会談)。
この時点で既に日本の敗戦は連合国側も認識していたし、日本側からも何度もソ連を通じて停戦調停の打診したにもかかわらず、連合国側が拒否し続けた理由は何か?
1945年2月ヤルタ会談で集まった隠れユダヤ人の指導者達の間では、この時に既にソ連の日本侵攻は了承されていたし、日本に原爆投下する事も織り込まれていた。
ただ終戦になってからでは原爆の投下は出来なくなるので、彼らからしてみれば、何が何でも終戦前に実験を行う必要があった。
つまりどちらの核が、よりコストパフォ-マンスが高いかの実験をするために終戦が引き延ばされた。
原爆により黒い雨が発生し、放射能被害が広範囲に広がることは、アメリカでは砂漠地での実験だったため、知られていなかった。広島、長崎では、爆風の急上昇により、地上の焼却物の灰が巻き上げられて、20~30Kmの広範囲に黒い雨となって降った。戦後この雨の残骸が住宅の壁に残っていたので、初めて物質の分析調査がおこなわれ、放射性物質が、判明した。
黒い雨





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