鍋島信生(のち直茂)が、大友宗麟が差し向けた佐嘉攻めの大将・大友親貞を今山に奇襲して討ち取る。
今山古戦場の碑と大友親貞の墓 |
四月二十二日、隆信と鍋島信生(のち直茂)は三千余騎を率いて大友勢の先鋒に攻めかけ、激しく戦って大友勢を後退させます。局地的には龍造寺勢は勝利しますが、兵数に圧倒的な差があり宗麟の本陣に切り込む事は出来ず、戦線は膠着状態となりました。
七月~八月にかけて大友方の筑後勢が攻めかかりますが、龍造寺勢は必死に防戦して撃退します。好転しない戦況に業を煮やした宗麟は弟(一説に甥)の親貞に三千の兵を与え、親貞は八月十七日に佐嘉城の北西・今山に陣を置きました。対する隆信は納富信景に二千騎を与えてこの方面の押さえとし、翌十八日の夜に成松信勝が忍びの者を放って敵情を探ったところ、親貞は圧倒的な状況に楽観視していて兵の統制も取れていないとの報告がありました。夜襲の絶好の機会と判断した信生は、隆信の許しを得ると直ちに行動に移りますが、城を駆け出た時はわずか主従十七騎だったと伝えられます。一方の親貞は二十日に総攻撃と決定しますが、前夜には酒宴を開いている有様で士気は緩んでいました。
後から駆けつけた者を合わせて三百騎となった信生勢は夜陰に紛れて迂回し、親貞の裏手の山へと回ります。そしてこの日の未明、一斉に鬨の声を上げて貝を吹き鳴らし、大友勢の本陣に切り込んでいきました。直ちに山麓の納富信景も呼応して攻め上ると、油断していた大友勢は大混乱に陥り、我先に壊走を始めました。親貞主従三人は何とか混乱を脱し、山伝いに筑後方面を目指して退却しますが、成松らに追いつかれてついに首を挙げられました。大将を討たれた大友勢は一瞬にして烏合の衆と化し、二千余の兵を討たれて潰走、この戦いに大勝した龍造寺隆信は以後急速に勢力を拡大することになります。
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